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書籍別メニュー 要注目書籍 幸福瞑想法 +... 第1章 幸福瞑想法とは 第2章 禅の瞑想 第3章 無為自然の瞑想 第4章 満月瞑想 第5章 止観瞑想 第6章 足ることを知る瞑想 第7章 対人関係調和の瞑想 第8章 光の瞑想 第9章 幸せの瞑想 第10章 希望の瞑想 第11章 自己実現瞑想 第12章 頭の良くなる瞑想 第13章 宇宙即我の瞑想 書籍INDEX 空海の霊言 +... 第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part1 第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part2 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part1 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part2 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part3 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part1 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part2 第4章 恵果阿闍梨の霊訓(一) 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part1 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1985.11 キリストの霊言 +... 第1章 イエス・キリストの霊訓(Ⅰ) 第2章 イエス・キリストの霊訓(Ⅱ) 第2章 イエス・キリストの霊訓 質疑応答&余聞 第3章 モーゼの霊訓 Part1 第3章 モーゼの霊訓 Part2 第4章 アモンの霊訓 第5章 リエント・アール・クラウドの霊訓 出版:潮文社/ 発行年月:1986.1 天照大神の霊言 +... 第7章 聖徳太子の霊訓 出版:潮文社/ 発行年月:1986.3 ソクラテスの霊言 +... 第1章 ソクラテスの霊訓(一) 第2章 ソクラテスの霊訓(二) 第3章 カントの霊訓(一) 第4章 カントの霊訓(二)Part1 第4章 カントの霊訓(二)Part2 第5章 エジソンの霊訓 Part1 第5章 エジソンの霊訓 Part2 第6章 リンカーンの霊訓 第7章 ガンジーの霊訓 出版:潮文社/ 発行年月:1986.6 坂本竜馬の霊言 +... 第1章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第1章 坂本竜馬の霊訓 Part2 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part2 第3章 吉田松陰の霊訓 第4章 勝海舟の霊訓 Part1 第4章 勝海舟の霊訓 Part2 第5章 西郷隆盛の霊訓 第6章 福沢諭吉の霊訓 Part1 第6章 福沢諭吉の霊訓 Part2 第7章 木戸孝允の霊訓 Part1 第7章 木戸孝允の霊訓 Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1986.7 卑弥呼の霊言 +... 卑弥呼の霊訓 卑弥呼の霊訓2 弟橘媛の霊訓 紫式部の霊訓 第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part1 第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part2 第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1 第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1986.10 高橋信次霊言集 +... 第1章 人生の目的と使命 Part1 第1章 人生の目的と使命 Part2 第2章 反省、瞑想、祈りについて 第2章 質疑応答 第3章 悟りについて Part1 第3章 悟りについて Part2 第4章 真の幸せ、真の安らぎ 第5章 足ることを知る Part1 第5章 足ることを知る Part2 第6章 心と肉体の関係 第7章 自力と他力 第8章 心の仕組み 出版:潮文社/ 発行年月:1986.12 孔子の霊言 +... 第1章 孔子の霊訓 Part1 第1章 孔子の霊訓 Part2 第2章 孟子の霊訓 Part1 第2章 孟子の霊訓 Part2 第3章 老子の霊訓 Part1 第3章 老子の霊訓 Part2 第4章 荘子の霊訓 Part1 第4章 荘子の霊訓 Part2 出版:潮文社/ 発行年月:1987.1 谷口雅春霊言集 +... 第1章 天上界に帰る 第2章 生命の実相を語る 第3章 光明思想の本義 第4章 神の子人間の本質 第5章 光一元の神秘力 第6章 本来病なし 第7章 言葉の創化力 第8章 真理は汝を自由にする 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.2 日蓮聖人霊示集 +... 第1章 職業の悩み Part1 第1章 職業の悩み Part2 第2章 病気の悩み Part1 第2章 病気の悩み Part2 第3章 恋愛・結婚の悩み Part1 第3章 恋愛・結婚の悩み Part2 第4章 夫婦問題の悩み 第5章 人生の諸問題の悩み Part1 第5章 人生の諸問題の悩み Part2 第6章 神理伝道の悩み 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.4 高橋信次の新復活 +... 第一章 新復活 第二章 人類救済の原理 第三章 愛と慈悲の世界 第四章 正義の時代 第五章 大宇宙と神理 第六章 心と科学 第七章 地獄界から高級霊界への旅 第八章 神理問答集 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.5 親鸞聖人霊示集 +... 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.5 内村鑑三霊示集 +... 第1章 キリスト教と日本 第2章 無教会派について 第3章 日本を憂う 第4章 イエスの働き 第5章 新しき時代への警鐘 第6章 七大天使の働き 第7章 新エルサレム 第8章 未来への福音 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.7 出口王仁三郎霊示集 +... 第1章 神のまたの名 第2章 月の時代と星の時代 第3章 天女の舞い 第4章 神通力 Part1 第4章 神通力 Part2 第5章 七曲がりの丘 第6章 天狗と仙人 Part1 第6章 天狗と仙人 Part2 第7章 大仏への道 第8章 お立て直し Part1 第8章 お立て直し Part2 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.8 谷口雅春霊示集 +... 第1章 人類幸福化の原理 第2章 唯神実相哲学 第3章 人類無罪宣言 第4章 真説・神想観 第5章 本来肉体なし 第6章 光の行軍 第7章 日本神道の秘密 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.11 高橋信次の天国と地獄 +... 第1章 愛とは何か Part1 第1章 愛とは何か Part2 第2章 悪霊と憑依 Part1 第2章 悪霊と憑依 Part2 第3章 守護・指導霊の役割 Part1 第3章 守護・指導霊の役割 Part2 出版:土屋書店/ 発行年月:1987.12 イエス・キリスト霊示集 +... 第1章 愛の復活 第2章 神の愛 Part1 第2章 神の愛 Part2 第3章 祈りと生活 Part1 第3章 祈りと生活 Part2 第4章 キリストの使命 Part1 第4章 キリストの使命 Part2 第5章 新時代の精神 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.1 天照大神の降臨 +... 第一章 美しき国 第二章 わが教えの根本 第三章 秩序の原理 第四章 神の愛する人間像 第五章 日本を憂う 第六章 信仰の優位 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.7 谷口雅春の大復活 +... 第1章 生死を超越せよ 第2章 霊格の向上とは何か 第3章 女性の本質 第4章 発展の構図 第5章 霊界見聞録 第6章 久遠の今を生きる 第7章 愛と性を超えて 第8章 内在する叡知の発見 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.8 ピカソ霊示集 +... 第1章 ピカソの霊示1 Part1 第1章 ピカソの霊示1 Part2 第1章 ピカソの霊示1 Part3 第2章 ピカソの霊示2 Part1 第2章 ピカソの霊示2 Part2 第3章 ゴッホの霊示 第4章 ベートーベンの霊示 第5章 シェークスピアの霊示 第6章 ダンテの霊示 第7章 松雄芭蕉の霊示 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.9 エドガー・ケイシー霊示集 +... 第1章 リーディングとは何か 第2章 治病の原理 Part1 第2章 治病の原理 Part2 第3章 現代人の健康法 第4章 宗教の諸問題 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part1 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part2 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part3 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part4 出版:土屋書店/ 発行年月:1988.10 新・運命の開拓 +... 第一章 光の賛歌 第二章 神の栄光 第三章 生命の本質 Part1 第三章 生命の本質 Part2 第四章 神々は集う 第五章 運命の開拓 Part1 第五章 運命の開拓 Part2 第六章 向上の原理 Part1 第六章 向上の原理 Part2 第七章 積極的人生の方法 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.3 谷口雅春・光はここに +... 第1章 実相としての光 第2章 輝ける日々 第3章 祈りとは何か 第4章 経済問題解決の法 第5章 神の子の健康法 第6章 信仰と奇跡 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.3 新・モーゼ霊訓集 +... 第1章 暁の章 第2章 科学の章 Part1 第2章 科学の章 Part2 第3章 太陽の章 Part1 第3章 太陽の章 Part2 第4章 星の章 第5章 大自然の章 Part1 第5章 大自然の章 Part2 第6章 希望の章 第7章 ダイヤモンドの章 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.3 スウェーデンボルグ霊示集 +... 第一章 我が人生観 第2章 霊界と結婚 第3章 キリスト教と私 第4章 私の見た地獄界 第5章 転生輪廻のしくみ 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.3 新・神霊界入門 +... 第1章 神霊界入門 Part1 第1章 神霊界入門 Part2 第2章 地獄界と竜宮界 第3章 天上界の秘密 Part1 第3章 天上界の秘密 Part2 第4章 天使の役割 第5章 女性論・人生論 Part1 第5章 女性論・人生論 Part2 第6章 六次元神界の実相 Part1 第6章 六次元神界の実相 Part2 第7章 小桜姫の新霊言 出版:幸福の科学出版 / 発行年月:1989.4 真説・八正道 +... 第2章 正見 第3章 正語 第4章 正業 第5章 正命 第6章 正思 第7章 正進 第8章 正念 第9章 正定 第10章 総論 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.4 ニュートン霊示集 +... 第1章 科学の本質 第2章 光とは何か 第3章 エネルギーの源泉 第4章 私の見た世界 第5章 人間を科学する 第6章 宇宙の秘密 第7章 未来科学の姿 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.6 太陽のメッセージ +... 第1章 いま神理の太陽が昇る Part1 第1章 いま神理の太陽が昇る Part2 第2章 魂の世界とその真実 Part1 第2章 魂の世界とその真実 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part1 第3章 愛の力・愛の神秘 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part3 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part1 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part2 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part3 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part1 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part1 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part3 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.7 ユートピア価値革命 +... 第1章 新時代の展望 第2章 ユートピアとは何か Part1 第2章 ユートピアとは何か Part2 第3章 ユートピア価値について 第4章 未来型人間とは 第5章 ユートピア価値革命 第6章 ユートピアと経済 第7章 理想的ユートピア論 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.8 高橋信次復活の原点 永遠編 +... 第1章 新創世記 第2章 甦る仏教 第3章 永遠の生命 第4章 心の法則 第5章 運命を超えて 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.8 高橋信次復活の原点 天使編 +... 第1章 天使の再来 第2章 ポスト・ノストラダムスの時代 第3章 神は光なり 第4章 幸福への道標 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.9 高橋信次復活の原点 希望編 +... 第1章 悟りへの段階 第2章 人類の夜明け 第3章 神々は招く 第4章 希望の光 第5章 不退転の心 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.10 高橋信次復活の原点 太陽編 +... 第1章 生死を超えて 第2章 未来への遺産 第3章 目覚めへの道 第4章 啓示と宗教 第5章 太陽の心 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1989.11 ゼウス霊示集 +... 第1章 ゼウス登場 第2章 神々の饗宴 第3章 新しき神となるために 第4章 ゼウスの悟り 第5章 ギリシャ的精神の起源 第6章 大いなる光の最期 第7章 ゼウスの復活とアポロンの使命 出版:土屋書店/ 発行年月:1989.11 高橋信次復活の原点 新生編 +... 第1章 生命と進化 第2章 中道とはなにか 第3章 心と行い 第4章 新経済学 第5章 神理文明論 出版:幸福の科学出版/ 発行年月:1990.1
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GLA教団から幸福の科学に相次いだ苦情(1988年春頃より) 関谷晧元著「虚業教団」より、関谷氏の回顧 1988年の春、はじめてGLAから正式な抗議文が送られてきた。内容は、『繰り返しニセ信次先生の本を出されては困るから止めてはしい』というものだった。それを読んだ私たちは、『なにがニセ信次だ!』『信次先生の霊が語っておられるのだぞ』と大いに憤慨した。 しかし、GLAが抗議するのもあたりまえだろう。(中略)宗教学者の島田裕巳の調べによれば、その霊言集は16冊になり、大川に降りた回数も70回になるという。この数は、はかの霊とくらべて群を抜いて多い。〈幸福の科学〉を特徴づける最も重要な高級霊なのである。GLAとしては、当然心中おだやかではない。亡くなった自分たちの教祖、神とも崇める教団創設者が、こともあろうに何の関係もない他教団に出現し、生前には聞いたこともないような話をしだしたのだから。 その後もGLAからは何度も抗議文が送られてきた。内容証明も二度ほど来ている。しかし、このときの大川はフライデー事件のときと違い悠然としていた。『放っておけ。返答する義務はないのだから』と取り合おうとしなかった。GLAの幹部がついに中原の自宅まで訪ねてきた。事務所ではなく、中原の自宅へ行ったのはどういうわけだろう。大川の『高橋信次』は、元GLA信者である中原の影響によるものと見なしたからなのか。とすれば、彼らは私たちが当時見落としていたものを、敏感に察知していたことになる。この訪問は、たまたま中原が留守だったために空振りに終わった。しかし、その報せがもたらされると、〈幸福の科学〉本部にはたちまち緊張が走った。ついに衝突の時がきたか!と、誰もが顔を強張らせた。 結局、何らかのかたちでGLAと接触しなければなるまいという結論に達した。『谷口雅春霊言集』もあるから、同じトラブルが生長の家とも起こる可能性があった。日蓮を祖とする日蓮宗、創価学会、空海の真言宗、親鸞の浄土真宗……可能性は至るところにあった。 高橋守の証言(江川紹子構成「私は大川隆法に裏切られた 『幸福の科学』元幹部が告発」 『週刊文春』1991年10月3日号掲載) 高橋信次先生といえば、こんなことがありました。GLAから、大川さんに会いたいという申し入れがあったんです。最終的には内容証明がきましたから、これを役員会で検討した。 私は「会ったらいいじゃないですか。そうすれば、大川先生の霊言の正しさが証明されるし、高橋先生の霊とお話しできれば、お弟子さんたちも納得する」と申し上げたんですが、結局彼は逃げたんですね。とうとう会いませんでした。 名前 コメント このページを編集
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目次 1.心の革命の始まり 2.新時代の序曲 3.変革につぐ変革を 4.真実の勇気を持て 5.光の革命 (1988年7月19日の霊示) 1.心の革命の始まり さて、いよいよ本書のクライマックスといいますか、最後のところにさしかかってきました。 本書の標題にもありますけど、心の革命だね、これはほんとうに革命なんですよ、みなさん。この革命なくしてね、人類は救われることはない。幸福になることもないんです。世の中が変わることもないんですね。 革命なんていうのは、別に暴力でね、人の頭をひっぱたくのが革命じゃないんですよ。政府倒すことが革命じゃないんですよ。そんなことはね、ある意味ではやさしいことですよ。ゲバ棒振るってね、学生運動やったりすることはそんなにむずかしくないんですよ。ワッショイ、ワッショイやることは別にむずかしくないです。 でもね、意外にむずかしいのがこの心の革命なんですよ。心のなかを変えること。これはむずかしいですよ。どうやって変えますか。ねえ、一人ひとりの心のなかなんかどうやって革命起こしますか。むずかしいですよ。ひとつのイデオロギーでね、マルクス主義を信じるとかね、天皇制を信じるとか、こんなことで人を集めて動くことはそうむずかしいことではないです。けれども、一人ひとりの心を革命するということは、これはたいへんむずかしいことです。 なぜならここは治外法権というのがあって、みんな立ち入ることができないようになっているんですね。まったく立ち入れないんです。心とはそういう聖域なんです。各人の心は聖域です。霊たちであっても自由自在には踏みこめないんですね。踏みこめる条件は霊道を開いているという前提ですね。霊道を開いていても完全には踏みこめません。なぜなら本人自身の意志というのがありますからね。 たとえば私もこういうふうに通信を送っていますが、これは通信を受けている〇〇さんが絶対受けたくないと思ったら、私は通信を送れないんですね。まあ出すことはできるけれども、それを伝えることはできません。本人が受ける気があれば受けられますが、受けたくなければはね返されますね。そのようにむずかしいんですね。 このようにね、人の心というのはものすごい自治権、自由権というのがあって、それを行使できるようになっているんですね。ここまで守られているんです。その意味ではたいへんありがたいことでもあるんですね。 さて私はね、まあいくつかの本を次々と出していますが、なんとか人びとの心に革命を起こしていきたい、その火つけ役をしたい、導火線に火をつけたいという、そうした気持ちでいっぱいです。もちろん、私よりりっぱなことを言う霊人はいくらでもいるでしょう。そうした方にはそうした方の役割があるでしょう。けれどね、私はできるだけ多くの人に教えたいっていうのが、私のほんとうの気持ちです。 まあだから、内容もおもしろおかしくねえ、赤川次郎顔負けの内容を出してるんですよ。それだけ多くの人に読まれたいという気持ちがあるからね。私はむずかしく言おうと思ったらいくらでも言えます。みなさんが読んでもわからんように言おうと思えばいくらでも言えます。そんな固く言おうと思えばいくらでもできます。チンプンカンプンのことを言おうと思えばこんなのかんたんです。けれども、あえてわかりやすく一人ひとりが読んでわかるように、小学生の学力でもわかるように言ってるんです。おじいちゃん、おばあちゃんでもわかるように言っています。 なぜかって言うとね、心の革命を起こすのは、そんな哲学的な議論じゃないからです。むずかしい学問やらなきゃわからんような、そんな理論で人の心なんて変わらんのです。八正道だって私はずいぶんわかりやすく話しましたが、八正道なんてこんなのひねくり回して哲学的に言ったって人間変わらんのです。人間が変わらんような理論は存在の意味ないんです。 私はマルキストじゃありません。マルクスもきらいです。けれどもマルクスのようなことを言いたい。「世の哲学者たちは世界をいろいろに解釈しただけである。しかし、今ほんとうにだいじなことは世界を解釈することではなくて、世界を変革することである。」マルクスはそういうことを言ったと思います。私も主義、主張は違いますが、同じ気持ちです。世界をいくら解釈したところで、そんなものはなんの意味もない。クソの役にも立たんと思っています。そんな世界を解釈することではなくて、世界をどう変革するかということが今だいじなことだと思うんですね。 そしてその変革の先はなにかというと、社会制度を変えるとかね、経済構造を変えるとか、そうしたことももちろんあるけれども、いちばんまっ先にやるのはこの心の革命です。これを始めんかぎりどうにもこうにもならんのです。その心の革命をやるにはむずかしい言葉は不要です。私が言っているように、ただ人間の心というもののしくみ、その作用、そのはたらきというものを教えて、どうすればユートピアができるのか、どうすれば地獄ができないのか、これをはっきりさせるということですね。これをしないかぎり、この革命を通さんかぎリユートピアということはないんです。 2.新時代の序曲 さて、新しい時代が今始まりかけています。そして、次第しだいに新時代の序曲というのが始まってきたように思います。その新時代の序曲として、みなさんが見ていて特徴的であることはいったいなんだと思いますか。 私はね、今続々と霊言といいますか、天上界の人びとが地上にメッセージを送っているわけですが、このメッセージの群れ、大群というものの意味をどう見るかということこれがだいじではないかと思いますね。 決して一枚のメッセージを送って、それを暗記して毎日拝めなんてことは私たちは言ってません。また、宗教だって、今の宗教法人が言うようなあんな掛け軸みたいのをぶら下げて拝めなんて、そんなことはどうでもいいことですね。私はね、そんな形式はどうでもよいと思っています。問題は中身です。メッセージが続々と出ています。なにゆえに、どのような意図でもって出ているのか、これを知ってほしいんです。まず、なぜ日本の地が選ばれたのか。そしてなにゆえにそういう天上界からのメッセージの大群というような方法が取られているのか。これを考えていただきたいのです。 それはひとつには、今の日本という国が世界の注目すべき国になっているということです。ある意味で最強の国のひとつになっています。軍事力は足りないかもしれないが、国力としては最強のひとつになってきていますね。そして国民はひじょうに高い教育を受けています。高い教育を受けて、そして高度な認識力、判断力があると言われています。こうしたところに大量のメッセージが天上界から届けられるということは、いったいなにを意味しているのでしょうか。それは、私は思うのですが、これこそが新しい時代のほんとうの学びである。学びの方向であるということだと思うんですね。 したがって、これからの新時代の序曲として、今奏でられているものはいったいなにかというと、神理を知らずして人ではないという感じですね、この感じがみなさんわかりましょうか。 実在界の霊たちが次々とメッセージを送っています。それが書物になってます。書物になって、メッセージを送ってから数か月で本になるというありがたい時代になっています。これが続々と本として出されるということはどういうことかというと、これを読まないでは現代人とはもはや言えない、常識人とは言えない、知識人とは言えないという、そういう時代を創りたいという意志があるということです。そして、さまざまなる高級霊の言葉を、その教えの内容を一人でも多くの人に学んでほしいということだと思います。 さすれば、私は今、世の中を変えていく方法としてなにがあるかというと、この今の日本という出版文化の栄えている国において、書物という形を取って神理の伝道を切りこんでいくということを、これをひとつのムーブメントとする必要があると思うんです。神理の書を読み、そしてそれによって学習し、学習した結果にもとづいて行動をしていくというこのプロセス、神理の探究・学習・伝道という、このプロセスを各人が持つということですね。そしてこれを新時氏の行動方針にしていく必要があると思うんです。 今、全国各地で塾が流行っています。受験勉強用の塾ですね、これが全国各地に流行ってますが、過当競争でやがて塾はつぶれていくでしょう。いろいろつぶれていくと思います。そんな必要はないからです。それはどのね、子供を縛って一日じゅう意味もない知識を詰めこむ塾、これがいっぱい流行ってもしょうがないんです。学校だって不要になってきつつある時です。そんなの不要なんです。必要がないんです。 これから必要なのは、心のことを教える塾なんです。これしかありません。人の心に革命を起こし、そして人びとに真実の生き方を教える塾が日本全国に流行らなければいけないんです。だから、塾の経営者でもう経営難が見えているところは、早目に神理の勉強して、これを教えられるような体制を組まなきゃいけませんよ。そうじゃないと倒産しちゃいますよ。 まあそうした冗談も言いながら話してますが、これからはね、ほんとうに日本各地で心の塾、これが流行ります。現代の松下村塾、あるいは現代の勝海舟塾でもいいけれども、そうしたものが日本国中で流行らなきゃいけません。こうした神理の書物をテキストとして、いろんなところで塾が流行って勉強する人たちが集まるという雰囲気を創っていく必要があります。 いろんな主要都市で、町で村で、神理の書を中心として学習会を盛り上げ、そして神理をそこで教える人たちが出てくる、こうしたムーブメントを創っていく必要があります。これがどうしてもあるのです。これをね、現代の学習塾のように、あるいはカルチャーセンターではありませんが、生涯学習のように、大いなるムーブメントとして盛り上げていく必要があるんです。こうした動きが新時代の序曲となっているのです。 3.変革につぐ変革を いま、そうした序曲が始まっていると言いましたが、私はね、高橋信次というような名前が有名になるかならんかというようなことはどうでもいいんです。けれども、できうるならば皮切り役をやりたいんです。私の情熱によって日本の各地にそうした神理のムーブメントを起こしたい、神理を学ぶというそうしたことに対するムーブメントを起こしたいと思うのです。 ひと昔前には、中国十億の民が、毛沢東語録という赤い表紙の本をパラパラさせながらみな歩いてました。まあ毛語録も結構ですけども、そんなものではなくて、こうした私の霊示集のようなものを持って歩くのがファッションになるような、そうした時代をどうしても創りたいんですよ。電車に乗りこんだら、あっちもこっちも高橋信次の霊示集を読んでいるような、そんな人がいっぱい目立つような時代、こういうふうにしたいんですよ。 だから、私は本書の読者に言いたい。あなた方はこうした霊物を読んでいることを恥ずかしがっちゃいけない。そんなことを恥ずかしがるということ自体が神理価値に反していることです。これを堂々と胸を張って教えてほしい。人に知らせてほしいと思う。霊がついているから恥ずかしいっていうんで、電車のなかで本にカバーかけて読んでいるようじゃダメです。そんな気の弱いことでどうするか。 したがってこの私の読者がもし高橋信次のファンであるというのなら、高橋信次の霊言ファンであるというならね、カバーなんかつけないで、高橋信次のこの『心の革命』でもなんでもいいけれども、つり皮にぶらさがってね、座っている人の目に見えるように大きく広げて読んでやってくれ。毎朝、毎朝、帰り、帰りね、みんな読んでくれ。職場でもその本が目につくようにピラーッとどこでも置いておいてくれ。そして一人でも多くの人に気がついてほしいんだ。 私は何回も言っているけど、こんなものは何万人ぐらいが読んだぐらいでは世の中は変わらんのです。世の中が変わるためには、最低、最低ですよ、百万人という単位は最低必要です。私の書物なら、それが百万、二百万、三百万は最低読まれたい。もっと読んでほしい、ほんとうは一千万人ぐらいに読まれたい。そのためには、こんなものをキワモノ扱いさせては断じてならんということです。神理の書をキワモノかなんかのように言わすことを断じてしてはならん。 もちろん組織があってそれなりの行動指針を出して動いているので、もちろんその流れに乗っていくということもだいじだけども、一人ひとりの読者という視点、君たち一人ひとりに私が呼びかけるとするならば、この高橋信次の本というのをこれをいろんなところで読んでください。見てください。見せてください。見られるところで読んでください。電車のなかで堂々と読んでください。学校に持っていってください。職場に持っていってください。知りあいの人にあげてください。 お中元でうなぎの蒲焼きを送ってきたら、お返しに高橋信次の霊言セットでも送ってください。お中元でもお歳暮でも結構です。お礼には送ってやってください。ねえ。入学のお祝いに『高橋信次の新復活』とかね、卒業のお祝いに『高橋信次の心の革命』でもなんでもいいんです。みんな勇気をもってね、変人だと思わないでやってくださいよ。そうしなければ広まりませんよ。そうじゃありませんか。 私は読んでほしいんですよ、みなさんに。そのために情熱的に言っているんですね。もちろん書店の人だって力を入れてやっていただきたいと思います。どんどんどんどん本出していきますから、力を入れてやってほしいと思いますが、みなさんね、これを読むということは義務ですよ。私はね、みなさんがいくら買ってくれたって、そんなお金一文もはいりません。一円の得にもなりません。地上で有名になったところでどうっていうことありません。言いたいのはこの中身が言いたいんです。「心の時代到来」ということ、これが言いたいんです。そのためには、各人の心を変革する、これ以外に手がないということを、私はただそれだけを言いたいんですね。 だから、もちろん一読者としてやれることには限界があるでしょう。けれどもこの本を読んだ人がね、この本を一人にでも二人にでも、三人にでも五人にでも、たとえば五人の人に広げてくれたらね、日本全体で合わせたらその五倍の人が知ることになりますね。それらの人がまたこれを広げてくれたらより多くの人が読んでくれます。私は宗教団体の会員の数が何人になるかなんていうことは関係ないんです。そんなことには興味も関心もありません。そうではありません。神理を読み、神理に接したことのある人が一人でも多く増えてほしいんです。接触面積を増やしてほしいんです。 だからまずね、心の革命と言うけれども、この私の本を読んだ人はもう「高橋信次党」に属したんです。マルキストじゃない、高橋信次キストです。キストというのはおかしいかもしれないが、高橋信次派に属したんです。みなさんはもう洗脳されたんです。ねえ、共産党みたいに赤になったんです。まっ赤になったんです。まっ赤かまっ青か知りませんが、ある程度の色が染まっているんですね。私の教えを受けた以上もうゾンビみたいなもんですね。高橋信次の魂が乗りうつったんです。読者のみなさんに乗リうつったんですね。乗りうつったらゾンビはゾンビで仲間を増やすんです。 いいですか。だから、この高橋信次の霊言読んだらもうとりつかれたと思ってください。悪霊でも善霊でいいけれども、もう君たちはとりつかれたんです。とりつかれてもう逃れることができないですね。バラ十字じゃないけども、なにかもう秘密結社にはいったようなもんだ。ねえ、だから君たちは仲間を増やす義務があるんです。ゾンビは自己増殖しなきゃ意味がないんです。どんどんどんどん広げていく必要があるんですよ。 だから、変革につぐ変革をと言っても、これはね、もっと具体的勇気をもって行動せよということですね。まず、家族のなかでこうした神理の勉強をやってください。みながわかるように、家族のなかで「なんだお前、変なことをやっておかしくなったんじゃないか」なんて言わせておかないでね、いいものはいい、これを認めさせる。そして知らせる。多くの人に広げてほしいんです。 これからもうカルピスセットは流行りません。霊言セットです。これをセットでもう友達に送る。会社の上役に送る。部下に送る。近所に送る。親戚に送る。カルピスさん、ごめんなさい。山本山の海苔屋さんごめんなさい。水ようかんやっている人ごめんなさい。申しわけございませんが、しかし人類が生き残るためには霊言セットでも送ってもらわんともうしょうがないんです。そういう時代が来ているんです。心の糧をね、心の缶詰を数多く、多くの人に読んでいただきたいんです。それは、神理を神理と思う人にほんとうの勇気を持っていただくこと、これ以外にないんです。これについてさらに話をします。 4.真実の勇気を持て 結局はここに来るんですね。霊的なものをなぜみながいやがるか、隠したがるか。どうですか。まあ学生さんも読者のなかにいるでしょう。若手のサラリーマンもいるでしょう。本棚に私たちの本を並べていて、家の人が来たり、友人が来たりして見られたら恥ずかしいという気持ちがありませんか。なるべく隠したいという気持ちがありませんか。その本だけ裏返しにカバーしてみたりしていませんか。どうですか。こんなことでね、こそこそしているようでは世の中は絶対に変わらないということです。 まず一人ひとりが不動の覚悟を持ち、そして自信を持ち、勇気を持って神理を広げていこうとしなさい。それはね、会員になれということを言っているのではない。そんなことは意味がないことだ。なってもならんでもいい、そんなことは個人の自由だ。そうではなくて、学んだこと、これを神の世界から出た言葉だと思っているなら、それを実践してみせることです。そして、その実践を通してより多くの人を導くことです。影響を与えることです。そうじゃありませんか。 また、ある種の人たちに言いたいけれども、特に先生なんかをやっている人、小学校、中学校、高校、大学、こうしたところで先生をやっているような人はね、どうか神理を知ってほしい。これは義務だと思ってください。神から与えられた義務です。学校の先生で、もう知識だけを教えたってダメです。これからは心を教えない教師なんかもうクビです。文部省が認めても私は認めない。 子供たちに教えるべきこと、子供たちに与えるべき鍛大の遺産は心の教えであるのです。みなさんは教科を教えているでしょう。学科を教えているでしょう。その合間にね、心の話をしてほしいんですよ。そして、教室でできないのなら自宅ででも結構、生徒たちと遊んでるときでも結構、折りに触れ機に触れ真実の話をしてほしいんです。心の偉大性を語ってほしいんです。人間とはどういう生命を持っているのか、その永遠の生命について語ってほしいんです。 そして、心というものはひじょうに汚れやすいものであるから、毎日毎日お洗濯をしなければいけないということを教えてほしいんです。反省ということかだいじだということを教えてほしいんです。だから特に教職という職業にある人たちは、このことを知ってほしいと思います。 また、宗教界にある人たちもそうです。仏教の人たち、神道の人たち、あるいはキリスト教会の人たち、みなさん方は特定の宗派に属しているから、それ以外のものを受け入れてはいかんと思いがちでしょう。けれどもね、神理は神理、真実は真実であります。仏教だって仏陀が死んで二千何百年、その間なにもせんと思いますか。なんの変革もないと思いますか。キリスト教だってそうです。イエス様が二千年間黙っていると思いますか。なんの心の改革もしないでいると思いますか。日本神道系だってそうですよ。三千年前の神様がなにもしないでゴロゴロ昼寝していると思いますか。この世界はね、日進月歩なんです。 神理は不変ですが、この不変の神理をどのようにアレンジしなおして人びとに広めるかということにおいて、その変革は日進月歩です。キリスト教も早く脱皮しないと、今のままではもう行きづまりますよ。もうそんな形式主義はいらないんです。教会で十字を切っていることによっては救われはしないんです。よいですか、単に「汝ら悔い改めよ」と言ってるだけでは済まないということを知りなさい。悔い改めのその方法は、神理知識というものを得て、その神理知識をテコとしてみずからの内をふり返るということです。そうではないですか。 だから専門家の方もね、どうかこわがらずに、先入観で判断しないで神理というものをとり入れて考えていただきたいのです。そして、真実の勇気をもって多くの人びとを導いてほしいと、そのように思います。 また、会社なんかで経営者をやっている人たちは、是が非でも神理を学んでいただく義務がある。君たちが、あなた方が神理を知っているということが、多くの人にどれだけ影響力を与えるかということ、それを知っていただきたい。平社員が神理を学ぶのもいいけれども、経営者がそれを学んでいるということがいったいどれだけの影響力があるかということを知ってほしいのです。世間的に影響力のある人ほど神理を知っていただきたいのです。そしてそれを実践してほしい、真実の勇気を奮い起こしてほしいと、そのように思います。 5.光の革命 さて、本書も最後までこぎつけました。喉(のど)をからしていろんなことを語ってきました。 私がね、本書で言いたかったことは一言です。「光の革命を起こそう。やろうじゃないか、みなさん」そういうことです。徹底的にやろうじゃありませんか。やらんでどうする。やらんでなにが変わる。世の中のなにが変わる。いったい世界がどうなるんだ。これだけの光があり、光の力があり、光の教えがあるんだから、広げようじゃないか。多くの人に知ってもらおうじゃないか。唯物主義国日本なんてこんなの世界の恥さらしです。そうじゃないですか。 みなさんはね、宗教なんて言って馬鹿にしちゃいけないよ。宗教というのは、「宇宙を示す」と書いてあるんですよ。宗教というのは宇宙の根本を教えることです。その成り立ちを教えることです。そのなかを流れているほんとうの法則を教えることです。 もうマスコミは、宗教を馬鹿にするのはもうやめていただきたい。もう新聞発行するのはやめてください。いろんな新聞社があるけれども、もうこんな霊の世界はインチキだ、迷信だと言ってるような新聞社はもうやめてください。もうそんなところの新聞取るのはもうみなやめてください。もうそんな新聞捨ててください。そんな週刊誌もう捨ててください。もうね、こんなもの私はもう見たくもない。こんな真実に反したことをいつまで言っておるのか。 霊の世界はあるからあると言ってるんだよ。ほんとうにあるんですよ。私が現にこうして言ってるんだから。あるんです。それを迷信だなんだと言ってるような人たちは、もうこういうのは地獄行きの特急列車に乗ってるんだよ。その特急列車に乗っているということを知らないで、それに他の人を乗せるようなことは、絶対にやめていただきたい。私はそう思います。自分が行くのはいいけれども、もう人を乗せるのだけはやめなさい。ひっぱるのはやめなさい。ほんとうの世界は現実にあるんです。それだけを言っておきたい。こうしてね、勇気をもって、光の革命を起こしていきたいと思います。 私は残念なんだけれどもね、できたらそれは高橋信次の霊言だって〇〇さん以外のとこからもいっぱい出してね、いろんなとこから出して世界じゅうに本をあふれさせて、アメリカ人にも出てヨーロッパ人にも出てね、インド人にも出ていろんなとこでやったなら世界も変わると思うけれども、いかんせん神の法則は法則として現にあるんです。他のところに出たくても出られないんです。私はね、GLAという団体のところで霊言したくても、私の霊言受けられる人が一人もいないんです。しょうがないんです。受けられると言うのなら出してみたらいいんです。絶対出せないんです。霊言集出せません。受けられる人いないからです。いないんです。だからほんとは私はつらいんです。いろんなところで出して言いたいけども言えない。ここ一点しか通せない。通せないから無理を言っています。 これほど次々と本を世に問うて、私はほんとうにみなさんに申しわけないと思ってます。こんなに無理を言って、ほんとに他の団体の主宰者がね、よその団体に来てこんな無理を言ってることを申しわけないと思ってます。そのような無理を言うことによって迷惑をずいぶんかけてることも知っています。ほんとに迷惑をかけてます。申しわけないと思っています。けれども、これしか私にとっては取る道がない、方法がないんです。 どうか私のそうした立場も考えて、私のこの一言一言が、一冊一冊がより多くの人たちのほんとうの心の糧となり、光の革命が地上に成就していくための力強いほんとうの力となるように祈っています。 読者のみなさんも、私が何度もくり返して言ったことをよくよく味わってください。言葉は美しくないかもしれません。日本語はへたかもしれません。外人よりへたかもわからない。けれども、私が言ってる言葉は真実の言葉です。この真実の言葉を聞いたなら、どうか変わってください。そして世の中を変えていってください。光の革命を成就しようじゃありませんか。 そのためにどうか力になってください。私の霊言が広がることを支持してください。助けてください。そして光の天使たちが、光の戦士たちが地上で活動していくことへ、どうか力強い支援を送ってやってください。それを祈っています。 ほんと、みんな頼んだよ。ほんとに頼むよ。それだけを言って、本書を終えたいと思います。
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幸福の科学発足記念座談会(1986年11月23日) 関谷晧元「虚業教団」より抜粋。 「いよいよ会として、第一回の会合を開くときがきた。『幸福の科学発足記念座談会』がおこなわれたのは、この年の十一月二十三日である」 「私は大川と中原をクルマに乗せて会場へ向かった。不慣れな道のために、予定時間を少しオーバーして到着した。はじめての会合を前にして、大川は不安だったようだ。テープに霊言を吹き込むことはあっても、大勢を前にして話す経験はなかったから当然だろう。気持ちを落ち着けたいという大川の提案で、三人は喫茶店で一服してからビルの四階にあるヨガ教室へ上がった』 「まず司会役の中原が登場し、開会の挨拶をした。彼女はかなり緊張し、アガっているように見えた。最初は言葉もしどろもどろだった。しかし最大級の賛辞で大川を紹介することは忘れなかった。内容はもう覚えて一つだけ強く印象に残っている言葉がある『大川先生が誰の生まれ変わりか、いずれわかるときがくると思います』」 「中原の紹介を受けて、大川本人が登壇した。いよいよ大川隆法先生の第一声。霊言集の偉大な霊能力者が何を語り出すかと、聴衆は固唾をのんだ。カメラを支える私の手も思わず力が入った。大川主宰は、しかしアガっていた。少なくとも私にはそう見えた。後に何千人、何万人を前にして堂々と演説する大川の姿ではなかった。話がどこか上滑りしている。誰も笑わないような冗談を言って、一人おかしがっている。『炎を見て、モーゼは炎を見て火事だと思うのですね。でも一一九番できないんですね。電話がないから……アッハ、ハ』」 「人間ならアガりもするだろう。私はむしろ、そんな大川隆法に親しみをおぼえる。その日は、GLA教団の教祖である故・高橋信次の霊の指導を受けて講演すると、前もって聞いていた。生前の高橋信次の講演は、私もよくテープで聞いた。早口だが、張りのある高橋の声は、言霊(ことだま)と呼ぶにふさわしい威厳とパワーに満ちていた。テープで聞く高橋の早口を、大川はマネしているように聞こえた」 「″おかしいな″と私は思った。″霊言を収録するときは、信次先生の魂が大川先生の肉体を自由に支配するのだから、ここでも、そうされたらいいのに。霊言と指導が違うなら、なにも信次先生のように早口になる必要はないと思うけれど……″心の中でこうつぶやいた。″やっぱり、大川先生ご自身のお考えで話されているのかな″」 名前 コメント このページを編集
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目次 1.二元論的世界観 2.光明一元のとらえ方 3.具体的勢力としての闇 4.闇を打ち破る方法 5.謙虚さの重要性 (1988年7月19日の霊示) 1.二元論的世界観 高橋信次です。引き続いてきょうも話をしています。 だんだん私もなんと言いますかねえ、よく出るんで歓迎されていないと申しますか、なんと申しますか、もうごく短期間でかたづけてくれと、よく言われはじめましてね。私の本作るなんてもう一日、二日ですよ、みなさん。もう突貫作業って言いますかなんて言いますかね。他の重要な神様だと一週間かかって録(と)らしてくれるんですが、私なんかもう一日、二日ですね。もう他の人詰まっているから早くやってくれ、もうシャーッとやってくれっていうような感じでね、言われているんですよ。つらいですねえ。まあもっともっと人気が出てほしいなあと思います。 それと、これは私のほうからお願いでねえ、これだけシリーズのなかで高橋信次ものを入れさしていただいているんですが、あんまり高橋信次ばかり出ると恥ずかしいわねえ、それはあるよね、著者として恥ずかしいっていうかね。高橋信次で食ってるんじゃねえかなんて言われたらいやだもんねえ。だからそれはわかるんだよね。だけど、私がこれだけやりたいやりたいと言うもんだからやらしてもらっているんだ。著者がひじょうに寛容なんでね、やらしてもらっているんですよ。 じっさいまあ勘ぐりする人がいて、高橋信次の名で商売しとるんじゃないかなんて勘ぐりもあるんでしょうが、実際は残念ながら高橋信次の霊言より理論書のほうが売れてるんですねえ。残念だけど理論書が売れて高橋信次の霊言、霊示集が連れ売れするというのが現状なんですね。これは私の口から説明しておきたいと思います。 それゆえに、私の本だけが異常に売れるのでいっぱい作ってるわけではありません。それは言っておきます。本人の意志ですね。私が霊として異常なまでにやりたがっているんですね。どうしてもやりたいんです。 なぜやりたいかっていうとね、まあいろんなとこで話したけど、私も九次元霊なんですね。みなさんなかなか信じられないでしょう。私のファンは信じるでしょうけども、ファンというのはありがたいもんでいつでもそんなもんですけれども。じゃあイエスやモーゼやブッダやねえ、孔子、こういう人がいるという世界に、ほんとうに十二年ほど前に死んだ高橋信次っていうのが行っとるのかどうかね、みなさん疑問に思いませんか。思わなかったら頭おかしいですよね、常識的に言えばね。そりゃあ高橋信次は偉いんだと、それはまあ弟子とか信者が信じるのはいいとして、一般的な日本人の頭脳からみてね、じゃあ高橋信次がほんとうにイエスや釈迦やモーゼや孔子というような歴史上の偉人だね、もうこれは値打ちの固まった偉人ですが、彼らとおんなじとこに行っているのかどうかって言ったら、そりゃ疑って当然だと私は思いますよ。 なぜ疑って当然かと言うと、生前GLAというところを創って、そして七、八年やりました。そして一時期何十万人かまでパッと増えましたが、死んだ後その団体もがタガタになったし、会員数ももう一万人いるかいないかわからないぐらいまで落ちこみましたね。日本には宗教団体は十八万くらいありますが、相当小さな団体にまでなりました。 こうしたものを見てもね、そんな九次元の大如来が出たとは思えないと言えるでしょう。たとえば創価学会が千七百万ねえ、立正佼成金八百万、霊友会四百万ねえ、天理教二百万、こちらのほうがよっぽど大きいですわね、だから中山みきさんのほうが高橋信次の二百倍ぐらい偉いんじゃないかなんて思うかもしれないね。まあこういうことがあります。 それはね、私も生前の悟りとしては九次元の悟りまで行っていましたが、仕事そのものですね、仕事そのものというのをとったときには、やはり九次元の大如来としては仕事は足りなかったという事実があるんですね。それだけの影響力をじゅうぶん駆使しえなかったということがあって、まあそれもこうした復活ということが用意されていたんで、ダブルで考えられているんですけどね。だからこの復活をして仕事を続けなければ私はほんとうに九次元霊として仕事したことにならないんですね、それゆえに、私は霊となって生前以上の仕事を絶対にしたいんです。なんとかこの自己実現をやりたいと思っているんで、そのへんをよくよくわかっていただきたいなあと思います。 結局なにが言いたいかというと、「二元論的世界観」なんです。二元論的世界観、つまりなんて言いますかね、私がこのようなみごとな復活をして喜んでいる人がいる半面、私が復活しても信じない、まゆつばだって言うような人がいるんですね。こういうことが現に私の復活ということを通しても起きますね。これほどむずかしいんです。もちろん二分法じゃなくて三分法、四分法といろいろ方法はあるでしょう。高橋信次の復活を信じる人、信じない人、どちらとも言えない人、これで三分法はできあがりですね。どちらとも言えないけど、信ずるほうに傾いている人と信じないほうに傾いている人、これで四分法のできあがりですね。これをもっと分けていくと、たとえば霊を信じる人と信じない人とに分けて、信じる人のなかで高橋信次の復活を信じる人信じない人、あるいはどちらでもない人、このようにでも分け方はあります。 このようにいろいろと分け方はありますが、いちばん基本的スタイルとしては信じるか信じないかということですね。神を信じるか信じないか、あるいは霊を信じるか信じないか、高級霊であると信じるか、信じないかというようにイエス・オア・ノーで考えるのが考え方の基本でもありますね。だから、こうした二元論的な発想というものが考え方の基礎にあるので、それゆえにたとえば善悪二元論というものが出てきやすいというところもあるんですね。 もし人間の発想が二元的になっていなくて、たとえば四元的、あるいは五元的、あるいは十元的な発想、十人十色というように、いつもある問題について論議されると十通りの答えが出るというような形式であれば、善悪の二元論というのはひじょうに出にくい状態にあると思います。けれども、人間の頭の理解のしかたはやはりイエス・オア・ノーで理解しやすいんですね。このようなことがあって、二元論的な世界観が支配的になっているんだと思います。ですから、他の星に行くと、もっと違った考え方ももちろんいくらでもあります。 2.光明一元のとらえ方 さて、こうした二元的なものの見方とある意味で対立しているように見えるのが、いわゆる「光明一元」の考えですね。「光一元」というような考え方が強烈に出されています。これは天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)様のような方が中心になって出されています。 もちろんこれもわかるんですね。おそらくそれはそのとおりですね。ただ私は立場が違うという感じはするんですね。というのは光明一元、光一元を説いておられる方々は、自分の立場に立って言ってるんじゃないかなって感じがするんですね。つまり神様の世界にいて、神様の立場から見て光一元とおっしやっているように感じるんですね。だからその立場をどこに置くかっていう問題があると思います。地上の立場で見たらかならずしもそうとは言えないということですね。しかし、実在界の立場から見たらそのように言うこともできるということですね。 したがって、善悪二元論、光一元論というように対立したもののようにとらえるけれども、これはものを見ている立脚点、立場が違うんじゃないかと言ってもいいんだと思いますね。地上の人間から見たら、いろいろと価値観が分かれて対立しているように見えるけれども、神の世界から見たらもう光そのものであり、そして人間は神の子であるし、そうした世界の投影なんだから本来光一元なんだと、このように言えるということですね。だから立場の違いとして考えていいと思います。 ただ、現実の現時点における地上での感覚からいくとどうかと言うと、やっぱり二元論的なものの考え方がある程度幅をきかしていると言ってもいいし、現実にも妥当しているのではないかと思うわけです。霊界の世界といっても、まあ高次元世界は別としても四次元ぐらいまではこの二元論は妥当しているのではないかとこのように言えるんじゃないかと私は思うんですね。だから、どちらのほうがより人間の理解のためにはわかりやすいか、ということが言えると思うんです。 つまりね、光一元、光明一元と言っておれば、もう努力の余地が多少なくなるんじゃないかという感じが私はするんですね。ああそうですか、そのとおりですね、お説ごもっともですね、それでどうされるんですかって言ったら、いや輝いているだけだ。光っているだけだと言われたらもうどうしようもないですね。 ところが、私はやはり人間は人間としてある程度、主体性をもって努力して生きていくべきだと思うんですね。その主体性をもって努力していく人間のとりあえずの目標はなにかというと、人生を生きていく過程でいろんな出来事が起きるし、それに対していろんな思いが出てくるけれども、その思いおよび行動というものがね、ほんとうに神様の歓迎するような思いであり、行動であるのかどうかを一つ一つ点検していく生き方、これがやはりだいじなのではないかと思うんです。 そういうことですから、究極には光一元があるとしても、ただ出発点においてはやはり人間というものは正しい行ないもすればまちがった行ないもする傾向があるのだから、だからこそ正しい方向へ善導していく必要があるんだということですね。また、闇というものはもちろん積極的存在ではないけれども、善というもの、光というものをくっきりと浮かび上がらせるという、そうした素材としては消極的に存在が許されているのではないか、すなわち悪は善を伸ばすための素材としてありうるのではないかと、そのような感じもしないでもありません。 それゆえにね、九次元まで行ってまだ二元論言ってるのかという人もいるかもしれませんが、人間という視点から見たときにはどうしてもそうした考え方を取らざるをえない、と私は思うんですよ。だって現に私の霊言読んで、これを本物だという人と偽物だという人と二人いるんですね。二種類の人間が明らかにいるんです。ところが真実は一つですね。違いますか、みなさんどうでしょうか。これが高橋信次の霊示集かどうかね、これは真実は一つですよ。まあ本人が本人だと言っとるんだから私は正しいものだと思ってますが、しかし信じる人と信じない人と二種類いるでしょう。でも答えはどっちかなんですね。するとどっちかがまちがっているはずでしょう。違うでしょうか。正しいと言う人が合っているのならば、偽物だと言っている人はまちがっているわけですね。これは悪ですね。違いますか。そうでしょう。だから、イエス・オア・ノーがはっきり出るんですね。これはどうしようもないんです。 ただ、これを一元論的にとらえるとすれば、今私の霊言を認めていない人であっても将来的には認める可能性のある人なんだ、ただ気づくのが遅いだけなんだと。まあこのような考え方もあるでしょう。時間の流れというものを見たらそうした考え方もあるでしょう。そちらのほうがいいならいいということも言えるでしょうが、やっぱり会議でもなんでも結論を出すときは一定の時間のなかで出さなきゃいけないんでね、締め切りっていうものがあるわけです。だからこの締め切りという観点から見たときに、やはり善悪は出てくることはあると、このように考えてよいと思います。 3.具体的勢力としての闇 では、闇はそのように消極的な産物で、光の部分がまだ現われていないだけなのであるのかどうかという問題について、さらに話をしてみたいと思います。 たしかに、あらゆる霊には仏性が宿っているということは真実です。地獄にいる者たちであっても、その本質は神の子としての光を宿しています。これは事実です。なぜならば、彼らも反省ということを通して悟ることが許されているからです。そして、悟りによって天国に上がることが許されているからですね。その意味において、たしかにあらゆるものは仏性を含んでおり、善の芽生えを持っているということは言えるでしょう。しかし、今一歩現象論として見たときに、実際論として見たときに、闇の勢力というものがあるということも事実であります。 それはね、ある意味ではたとえば酔っ払って車の運転をしているような人たちかもしれません。彼らは酔っ払ってるからもう感覚がマヒしていますね。それゆえに、道路の右側を走ったり、人をはねたりすることがありますね。こうしたものはなにかっていうと、これはやはりひとつの悪の現象が出ているわけですね。本来まともな人間だからと言っても酒を飲んで暴走しているという現実がある場合、こうしたときにはこれをなんとかして阻止するのはこれは当然のことであると思うんですね。そうしないと、多くの人たちがますます傷つくことになり、苦しむことになるわけです。そうしたことがあるわけです。それゆえに、そのような一時的な姿ではあるし、迷える姿でもあるとは言えましょうが、闇というものが具体的勢力として出現していることも事実です。 現に多くの宗教団体を迷わしている悪霊群の存在、これは事実としてあります。そしていろんな人のところにとり入って、彼らを操っています。また、霊能力を持っていたり霊道を開いたりした人たちであっても、その心の状態が悪化すると、すなわちこの闇の勢力のとりこになっていくことが多いのです。自らの正しき心の探究ということを忘れて、自分は偉いんだというように増上慢になっていったときに、この心を舵(かじ)取る人がいなくなっていきます。そうして、こうした具体的勢力としての闇に支配されていくようになってゆくのです。 そしてこれは光の天使であっても阻止することがひじょうに困難であるのです。なぜならば、人間の心にはすでに説明したように、波長の原則というのがあります。つまり同じ波長の者どうしが引きあうという法則があるのです。それゆえに、地獄の悪魔たちの波長に合うような波長を出している人たちは、彼らのとりこになってゆかざるをえないのです。たとえ霊能者であっても、波らに私たちから通信が送れるかと言えば送ることができないでいるのです。 たとえば、今私は〇〇さんという方にこのような霊示を送っています。瞬時にコンタクトすることができ、送ることができますが、では〇〇さん以外の人に私が霊示を送れるかっていうと、送っても受け取ることができないんです。なぜ受け取ることができないかというと、九次元の波動を受け取るには九次元の波動を受けとるだけのアンテナがいるんです。その周波数に合ったアンテナがなければ、私たちがいっくら電波を発信してもそれを受け取ることはできないんです。 もしこれができるならば、歴史上の預言者は必要がなくなるんです。そうじゃないでしょうか、皆さん。旧約聖書の時代から預言者というものがいっぱい出てきました。なにゆえにですか。神の言葉を伝えるためにでしよう。違いますか。神の言葉を伝えるために、預言者という優れた人たちが出てきたんでしょう。そして、アンテナ役になって神の声を受け取り、それを人びとに伝えたんでしょう。たとえばエレミヤだってそうでしよう。エリヤだってそうでしょう。違いますか。そういうことですね。 したがって、過去預言者が続々出てきたということ自体が、神の声を伝えることができるのは選ばれた人であるということを意味しているのです。どのような意味において選ばれているかというと、ふつうの人ではそのキャッチができないということですね。キャッチできないんです。なにゆえにできないかというと、心の波長を整えることができないからなんです。 みなさん、電流はいったいなにに流れますか。電流を流すことができるのはそれは伝導体ですね。伝導性があるものだけです。たとえば、銅の線でふつうは電流がよく流れますね。銅線によく流れますが、この銅線に絶縁体をかぶせたら電流は流れると思いますか、みなさん、流れないでしょう。違いますか。そうですね。絶縁体をかぶせたら銅線にも流れなくなっていきます。同じように、地上に生きている人間というのは心がひじょうに三次元的波動に染まっているんです。そして、その心の曇りがちょうど銅線にかぶせた絶縁体のような役割を果たしていて、電流が流れなくなっているのです。この電流を流すためには、こうした精妙な波動を出せるところまで心を浄化しなければ無理なんです。 そして、高次元の霊の波動を受けるところまで心を浄化するということは、末法の世の中においてはひじょうにむずかしいことなんです。そのためには地上に生きている人間の努力もいりますが、やはりそれだけの大きな力量を特った人が出る必要も同時にあるのです。それだけの実力者が出なければ、なかなかそうしたことはできないという事実があるんですね。こうしたことを知っていただきたいと思います。この法則がじゅうぶんに理解できていないと、魔というのが人間にとり入ってきます。そして、霊能を持っているだけで、あるいは霊道を開いているというだけで高級霊から通信を受けたと称し、あるいは彼らとコンタクトができるということを称するようになって、そして迷わされていくことになるんです。 したがって、具体的勢力としての闇と戦ってゆくためには、この心を浄化させるということがひじょうにたいせつです。そして、彼ら高級霊の波動と同じ波動を出さなければ無理だということを知ってください。特に地上にいて怒りに燃えているような人、愚痴に燃えているような人、憎しみに燃えているような人に、八次元や九次元の如来の通信は絶対にできないということを、私は声を大にして言っておきたいと思います。 4.闇を打ち破る方法 さて、具体的な方法として、さらに闇を打ち破るためにはどうしたらよいのでしょうか。その方法はいったいどこにあるのでしょうか。これを考えてみたいと思います。 闇というちのも、人間的な視点から見たら実在するようにも見えるし、現に敵対するようなこともあるということを私は話をいたしました。この闇を打ち破る方法はね、ひじょうに困難な方法ではあるんです。またひじょうに遠回りな方法でもあるんです。しかし、それは確実な方法でもあります。闇を打ち破るのは力ではありません。それを打ち破るのは、忍耐のある愛なのです。 人をほんとうに善くしようと思ってじっと耐え忍びながら愛していくような力、こうしたジワジワと太陽の光のごとく雪を解かしてゆくような力、これが根本的に闇を打ち破っていく方法のひとつなんです。彼らをひっ捕らえてギロチンにかけるというような方法は、これはまた地獄のあり方なんですね。春の太陽がさんさんと射し始めて、根雪が少しずつ少しずつ解けて春の小川となって流れていくように、闇を打ち破る方法はじつは積極的なる方法というものではないのです。 みなさんは、あの北風と太陽の話をごぞんじでしょうか。旅人がコートを着て歩いているのを見て、北風と太陽がそのコートを脱がそうとして競いあうわけです。そして、まず北風が「私がこの力でもってビュンビュン吹いて吹いてすれば、あの旅人の着ているコートはすぐに吹き飛んでしまうよ」と、このようなことを言って北風がビュンビュンと吹きつけますが、そうすると旅人はどうしたかというと、これはたいへんな寒さだ、これでは凍えてしまうということで、しっかりとコートをおさえてしまい、コートをますます脱がなくなってしまったんです。そして、北風がいくらやってもダメたったわけです。 そこでとうとう北風もギブ・アップしまして、「太陽さん、ダメだったよ」とこう言いますねえ。では太陽が「じゃあ私がやってみようか」ということで乗り出してきます。北風は、太陽みたいなあんななまぬるいことで絶対コートなんか脱がせられないと思うんですが、太陽が出てきてニコニコニコニコしながら光を射していると、旅人はだんだんだんだん暑くなってきてポカポカポカポカしてきました。それでとうとう汗だくになってたまらなくなってコートを脱いでしまいました。北風は腕力でやろうとしてだめだった。太陽のやさしさに勝てなかった、という寓話ですね。 私はね、闇と闘うということも結局こういうことだと思いますよ。叩き潰すなんていう考え方は、北風ビュンビュン吹かしてコートを脱がそうとしたのと同じことですね。闇と闘うにあたっては、この太陽のようでなければいけないのです。すなわち、少しずつ少しずつ熱エネルギーを放射して暖かくしていくことです。そうしてコートをいつまでも着ていられなくするようにすることです。まあこうした方法論がいちばんだいじであると思います。ですから、きわめて回り道ではありますけど、結局それしかないんですね。 そして、自分自身のことを言うとするならば、自分自身はどうしたらいいかというとあのストーブの反射板かなんかのようにね、ピッカピッカに光っておいて、そしてストーブの光をはね返す、熱をはね返すことですね。そのようにしておけばいいんです。心のなかがいかに苦しくともね、いろんな批判を受けて傷つくようなことがあっても、心をつねにピッカピッカに磨いておくことです。そうすれば、いろんなものがみんなはね返っていきますね。そうしたものです。ですから、個人の努力としては自分の心を一生懸命光らすように努力すること、これがだいじです。そして、他を説得する方法としては、あの太陽のごとくジリジリと照りつけていくことですね。こうした方法がいちばんであると言えましょう。 5.謙虚さの重要性 さてここで、私は前にも言ったことがあると思いますが、「謙虚さの重要性」ということをもう一度くリ返しておきたいと思います。 いろんなところで神理を説いている人、教えを説いている人が多くいるでしょう。そうした人たちは、とにかく我こそ神理なりと居丈高(いたけだか)になりやすいのですね。これが神理だ、どうしても伝えなければいけない、世の人びとをめざめさせなければいけない、彼らの頭をたたいてでも目を覚まさせたいと、こうした気持ちでもってやるんですが、そうして魔と闘っているうちにね、いつの間にか逆に彼らの掌中(しょうちゅう)にはまってしまって、術中にはまってしまってとりこになっている人が多いんですね。心の窓を開いたときには高級霊の光を受けることができ、守護霊の声を聞くことができた人が、いつのまにか彼らの術中にはいっていくことが多いんです。 なぜかと言うと、まず霊道を開いたという経験によって非凡なものを経験することですね、これによって自分はまったく違った人間ではないのか、まったく別種の人間ではないのかという自覚が生まれてきます。そのうちそれが確信になってくるわけです。そうすると、「自分は決してまちがいをするはずもない。自分は人に頭を下げるような人間ではないのだ。世の人びとは自分の決めたことをとにかく鵜呑(うの)みにすればよいのだ」と考えるようになり、そして自分の考えを人びとに押し付けていくようになります。そして、それを受け入れない人に対してはサタンだというようになります。こうして、裁きというものを始めるようになってくるのです。 したがってね、どんな優れた人であっても、だんだんに人を裁く傾向が出てくるんですね。この人を裁く傾向が出てきたときに、これはひとつの危ない迷い道であるということを知らなくてはいけません。そうかんたんに偉くなってしまわないということがとてもだいじであると、私はそのように思います。 この方法はいったいどこにあるかと言うとね、やっぱり謙虚さだと思いますよ。謙虚に生きることですよ。「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」の心境でね、実れば実るほど頭を垂れていくということですよ。それとね、評判が上がれば上がるほどね、「まだまだこんなものでは本物ではない。自分はもっともっと基礎力をつけてじっくりと仕事をしなきゃいけない」という、こうした気持ちがだいじだと思います。 したがって、たとえば学校の生徒であれば、試験を受けてその点数がよければすぐ有頂天になるんじゃなくてね、よければよいほどね、ますます勝って兜(かぶと)の緒を締めよで、「これではいけない。こうした力はまだほんとうに自分の実力であるはずがない。もっともっとこれは勉強しなきゃいけない」という、こうした気持ちで努力していくことです。そこにほんとうの道が開けてくるんですよ。 だから私は正法行者たちに、宗教家たちに言いたい。謙虚な気持ちを持つことです。謙虚な気持ちを持つためには、ひとつには目標を高く持つことです。遠大な目標を持つことです。人類の悪がなくならない限り、自分の使命をまだ果たしていないと思うことです。さすれば自分ちそれほど不完全な人間であるならば、使命が果たせていない人間であるのならば、どうして他の人を裁くことができましょうか。他の人をダメだと言い切ることができましょうか。そのようなあったかい気持ちで生きていくということが、とてもとてもだいじなことであると私は思うのです。 何度も何度もくり返して言っておきます。どうか謙虚であっていただきたい。かりに過去世にあなたがなんであるということを聞いたとしても、あるいは今世においてあなたが大臣であろうが、どんな偉い方であろうが、どんな収入を持っているような方であろうが、しかしそうした外見の飾りがりっぱであればあるほど、ますます謙虚に生きていく、ほんとうの中身を創っていくという態度がだいじになってくるのです。自分だけが決してまちがわないとか、特殊な人間だとか、どうかこうした考え方を持たないようにしてください。そして、自分の仕事というものを、生き方というものを第三者の目で正しくみつめなおしてください。そこに、ほんとうに正法行者としての正しい生き方があると思うのです。
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目次 1.ポスト・ノストラダムスの時代と予言 2.イエスの誕生と十字架上の死の予言 3.イエスの血の汗の祈りに沈黙で答えた高級神霊たち 4.四十八歳でこの世を去ることを予言した高橋信次 5.三十三歳のイエスの死が招いた弟子たちの混乱 6.死の三日後、復活して成就したイエスの予言 7.高橋信次の死と五年後の奇跡の予言の成就 8.九次元大加来の死後あとを継げない弟子たち 9.五年後の復活の予言は成就した。かつての弟子たちよ一本化せよ 10.ノストラダムスの予言による人類危機の時代 11.しかし人類は死に絶えない 12.この霊言集こそ、未来の黄金時代のためのバイブル (1987年2月4日の霊示) 1.ポスト・ノストラダムスの時代と予言 いよいよきょうは、「ポスト・ノストラダムスの時代」というふうに名づけました。 ポストというのはみなさん郵便ポストじゃありませんよ。とくに主婦のかたはポストというと郵便ポストだと思ってね。あるいは「週刊ポスト」かしらなんてね、いろいろ思っているでしょう。 だけど、そのポストだけがポストじゃないんですよ。ポストっていうのはね、いちおう、英語なんです。英語で「つぎの」とかね「あとの」とかいう意味なんですね。 そうすると、ポスト・ノストラダムスというのは、ノストラダムスの予言ばかりじゃなくて、ノストラダムスのあとの時代とまあこういうことですね。 だから私も英語の勉強ぐらいしてたということを見せるために、ノストラダムスのあとの時代というんじゃなくてね、ポスト・ノストラダムスの時代とまあこうなったわけです。 それでね、きょうは主として予言が中心の話になるかと思います。 けれども、まああんまりきわどい予言をするとね、やっぱり全人類にたいしてひじょうに恐怖心を起こさすといけませんからね。 私は恐怖は大嫌いで、楽しいことが大好きですから、そういうことは言えませんけれどもね。まあ多少やわらげながらいろんなことを言っていこうかと思います。 2.イエスの誕生と十字架上の死の予言 予言といいますといろいろありますけれども、昔からイエス様の出現の予言ね、これは有名でしたねえ。旧約聖書の預言者たちはイエス様が出る千年前から、救世主が出るっていうことを予言していました。 でこれは有名な予言でしたね。かなり的確な予言で、その救世主が十字架にかかって死ぬところまで予言されていました。 だから予言があったから、彼があえて十字架にかかったのか。十字架にかかることになっておったから、予言ができたのか。ここがむずかしいところなのですね。 まあイエス様に言わしてみりゃあ、「あんなこと言われたもんだから予言が成就するためには、やっぱり十字架にかからざるをえん。」と。 そしたら「逃げることは逃げれたんだけど、まあいちおう予言がはずれると私が救世主でなくなるから、やむをえんから十字架にかからにゃしょうがない。」とあきらめたかね。まあこのへんはご本人の葛藤がありましたでしょう。 ゲッセマネの園で汗を流して、お祈りになったそうですから、葛藤されたでしょう。「神様どうかお答えください。私はいま、逃げようと思ったら逃げられます。追っ手が来ておるのはわかっています。いま、逃げたらたぶんまあ二、三か月は生きのびられるでしょう。そのときまた外のほうへ、方面へちょっと逃げればもうちょっと生きのびられるかもしれません。けどいまジィーッとここにいたら、とっつかまえられて、明日は十字架です。十字架が待ってます。どうしましょうか。」 ただ旧約聖書では救世主が出るときにそれが人の子の手にかかってあげられる、十字架にかかるということをね、予言されています。 またその死刑執行人たちがね、その者の着ておる衣ですね、「一枚でできた衣をくじびきを引いてわけて切り裂くであろう。」ということを旧約のなかで予言はされていますね。 そうすると、このままジィーッとしておったらね、イエス様の洗濯したての晒(さらし)ですね、晒を巻いているか、フンドシではなかっただろうと思うんでずが、まあ晒を兼ねたような一枚の衣をさらっと巻いとったんでしょう。 きっとこれはマグダラのマリアなんかが仕立てた服であったと思いますよ。これを、一枚衣をね、こういう服を着とったんです、イエス様はね。 たぶん明日までいるとこの一枚衣の服は切り裂かれて、くじびきでわけられるだろうと、死刑執行人たちに。そして私は罪人とともに処刑されることが予言されておると。 その予言が成就される。予言の成就を取るべきか、わが身のかわいさを取るべきか。 イエス様でも、やっぱりちょっとは迷ったんです。これが血の汗になって流れたわけですね。 3.イエスの血の汗の祈りに沈黙で答えた高級神霊たち しかしそのとき、神様はなにもお答えにならんかったわけです。 神様というのはだれかというとね、答えなかったのは知らん顔しておるのですね、ようするに。知らん顔したのはだれかというと、はっきり名前を言いましょうね。 知らん顔したその人は、天上界にいてイエス様の祈りを聞きながら、知らん顔して返事しなかった人というのは、まずモーゼですね。これが一番筆頭で知らん顔して逃げたのですね。 二番目に知らん顔をしたのが、アモンというのがおったんですけれども、これも知らん顔して逃げました。 それから三番目に知らん顔したのが、だれかちゅうと、これはね、お釈迦様なんです。お釈迦様いたんですよ、ちゃんとね、いたんです。知らん顔してね。 「私は蓮の池のほうへ行って、やっぱりねクモの糸たらしてね、地獄霊たち救わにゃいかんからね。」ってね。 それやっとかないとね、のちの世に日本に芥川龍之介が出たときに、お釈迦様が蓮の台(うてな)の上から地獄を眺めておって、かわいそうだからお慈悲でクモの糸をたれて、カンダタとかいう罪人がね、それを登ってくるときに下からいっぱい登ってくるから、「おまえら登ってくるとクモの糸が切れるから下にいきやがれ。」ってね、「落ちろ。」なんて言ったもんだから、プツッと糸が切れたなんてね話ありますね。 「こういうことを後の世に芥川龍之介が書かにゃいかんから、私は忙しいです。」 「クモの糸たらすんで忙しいからちょっとイエス様の祈り聞いていられないから、ちょっと他の人にたのむから。」ってね。で知らん顔しました。 そのときにいちばんやはり偉大だったのは高橋信次だったわけですけれども、高橋信次はね、「まあ死ぬのか。それはいいだろう。もう時期もきただろう。イエス様も独身だからそんなに長くいちゃあ体に毒だから、もう還ってきなさい。」 だけどまあ本人としてはやっぱりつらいのはつらいのだから、つらいときにはね、ことわりの手紙を入れりゃいいんです。けれど私たちとしては知らん顔をしているのがいちばんなんです。 だいたい出版社なんかでもそうですよね。本を出さないときなんかね、出しませんなんて言わずに知らん顔しているんですね。これが出版社のやりかただし、著者のほうが強くなってくると、出版社が原稿ほしいといっても、著者のほうが知らん顔してね。「いやーそのうち、そのうち。」などと言ってことわるんですね。 こういうふうになります。これは大人の知恵っていうんです。 同じようにね、まあイエス様が、命ごいしているわけではないんだけど、「明日ほんとうに十字架にかからにゃいかんのでしょうか、どうしましょうか。」と言ったときに、やっぱり「そのとおり十字架にかかれよ。」なんてね。 「死ね。」なんて言ったらね、あとでやっぱりシッペ返しが怖いですから、やっぱり知らん顔するのが大人なんですね。大人の知恵で知らん顔しているわけです。 だから高橋信次なんかあの世でやっぱり安楽椅子に腰かけて、葉巻きのタバコなんかくわえてね、ゆっくりとくゆらせながら、「まあしかなるべしでしょう。なるようになるでしょう。ハッハッハッハッハ。」と笑っておったわけであります。 イエス様は三十代だったのですよ、そのときに。しかしだれも答えてくれない。あれだけね、私が忙しいときにはいっぱいちょこちょこ来てはね、話をしてた人がね、だーれもなにも言ってくれない。知らーんとしているのですね。シーンとしているのですね。 こりゃみんなもう、これはというとね都合が悪いと思ってね、自分が死刑宣言したと思うと、イヤなもんだから、みんな黙っているなんて。 モーゼ呼んでも返事しない。 エリヤ呼んでも返事しない。 アモン呼んでもいない。 お釈迦様呼んでも知らん顔していない。蓮の台(うてな)のほうかなにか見ちゃって、ぜんぜんふり向いてくれません。 高橋信次はちょっとタバコをくゆらして知らん顔しています。 こういうことでだれも返事をしない。 三時間たったけど「ああ、そういうことだったのか。そうか、そんなにつれないのですか。あっそう、わかりました。じゃいいですよ。私はもう腹きめましたから。けっこうです。私だって、あなた日本人に生まれりゃね、武士のはしくれです。この腹かっさばいてみせましょう。」と。 こういうわけでイエス様は、旧約聖書の予言どおりになることに決めました。 「このまますっきりいったほうがいいだろう。」あまりバタバタするとちょっと予言が狂ったりするとまた疑われてね。 「わしこそがキリストじゃ。」なんてもう一匹出てきたらいかんから、もうあっさりやられることにしましたね。 こういうように、まあ肉体を持った光の指導霊でも、いざ死ぬ段になると、やはり、心が揺れるのです。 4.四十八歳でこの世を去ることを予言した高橋信次 同じようなことが一九七六年に起きたわけですね。みなさんご存じでしょうか。 一九七六年の偉大な事件、知ってますか。知らない? 知ってるね。高橋信次氏のご逝去ですね。高橋信次さんが亡くなられたわけです。 あれほど多くのひとびとを救われた奇跡の人とまあ一部の人から言われたことがあった高橋信次は、一九七六年、みずからの予言どおり死んじゃったわけです。 まあ、私の本のなかで『心の発見』でなんども言うけど、たとえば、神理篇とかありますけど、あのなかにたしか書いてあったと思いますけれども、私は二十代でね、一栄と、まあ高橋一栄という、まあ妻をやっとった、やっとったというと怒るけれども、まあ元、妻というか、いまも妻か、前妻か知りませんけれども、妻と結婚するに際してね、私は「自分は四十八歳までしか予定のない人間である。」と言いました。 で「四十八歳のときには私は人生を左右するような、大きな事件に見舞われる。それでも、おまえいいか。」と。「それでも俺と結婚するんか。」と、いうことを言ったわけですね。 まあ一栄先生は、まあぼんやりしている人ではないんですけれども、ひじょうに合理的な方ですから、「まあ馬鹿なことをおっしゃる人ね。まあ冗談いってね。四十八歳までしか予定がないならね、四十八歳でまた予定を作ったらいいじゃないの。六十まででも、七十まででも。かっこうつけちゃってね。四十八でどうするんだろうか。もう会社やめて出家するというのだろうか。それともどっかの会社でも勤めてて、定年退職、選択制定年退職にかかって早目にクビ切られるのかしら。まあなんでもいいけどまあ、そのときがきたらそのときじゃないの。」なんてね、思っていたようです。 そういうことを本に書いて私もね、もう死ぬ何年も前から、もうね、私は「そろそろ逝(い)くよ。」っていうことをずいぶん、まわりの人たちに言ってました。 だれも信じないんですね。病気の人たちをドンドン治したりね、奇跡がドンドン起きましたから身のまわりで。 これだけの奇跡を起こす人がかんたんに四十八で死ぬなんてわけはないと思うわけですね。 四十八なんて早死にする人は、これは悪霊にとりつかれた人しかいませんから、そんなことはない。そんなのふつうの人なのです。 でも、そういえばイエス様は三十三歳で私より十五年早い。そんな悪霊につかれて死んだのですか。そんなことないでしょう。これはみんなあの世での予定があるのです。 5.三十三歳のイエスの死が招いた弟子たちの混乱 ただそのときのイエス様の三十三歳で亡くなられたということにたいしてね、弟子たちはこれは動揺したわけね。 「その若さで亡くなるちゅうのは、おかしいね。救世主がそんなはずがない。十字架にかかってもね、たとえば槍で突こうと思っても、槍が折れたとかね、殺そうと思ったら稲光が落ちて、まわりの人がみな死に絶えたとかね。そのていどのこと起きるんじゃないか。」とか。 あるいは「ガブリエルだとかね、ラファエルとか、いろんな天使がきて、イエス様を十字架から抜いてね、救っていくんじゃないか。」とかね。いろんなことを弟子たちは思ってたんです。 ところが、じっさいはそういうことが起きずに、イエス様は酢っぱい葡萄酒かなにかを含(ふく)ました海綿かなにかを口にあてられて、一口も飲まないうちにこときれちやったのですね。 弟子たちも動揺したわけです。三十三歳で亡くなっちゃって、死ぬ段に奇跡が起きなかった。こんなのでほんとうに救世主だろうか。 たしかに先生の救えはりっぱだったし、愛の教えはすばらしかったし、奇跡はいっぱい起きた。 たとえば、もちろん病人なんかいっぱい治っちゃったし、死人が甦ったし、それから、海の上、波の上をペタペタはだしで歩いちゃったイエス様です。 それから五千人、七千人の人に食事を与えた。パンを裂いたらいくらでも増えて、魚をわけたら魚は何匹にでもなった。 あの奇跡の先生、「ラザロよ出でよ。」と言って、墓のなかに寝とった、死んだラザロね、もう死んで何日たっていますかね。四日ぐらいたったんですかね。 「死ねるにあらず、眠れるなり。ラザロよ出でよ。」と言ったら、ミイラみたいに包帯クルクル巻きにしたラザロが、墓のなかから「アーアー、アーアーアア目が覚めた。ああ眠かった。」なんて言っちゃってね。 あの石を押してゴロゴロと出てきたもんだから、もう兄弟とか、親兄弟が「キャー。」って言っちゃってね。もう「恐い。」ってね。 ミイラ男が出てきたなんてもんで逃げまどったわけですけれども、現にそういうことがあったわけです。 死人を甦らせたイエス様が、自分が死ぬなんて、そんなことあるのかしら。これはまあ弟子たちの率直な気持ちでしたね。ですからみな逃げたわけです。そして信じられなかった。 ペテロでさえね、あれだけ絶対にあなたを裏切りませんと言ったペテロが、裏切ったと言っちゃあかわいそうだけれど、「私はイエス様なんて知らない。」なんて三回もウソ言っちゃってね、知ってますなんていったら自分もひっぱっていかれて、その場で死罪ですから、そんなの困るからペテロだって「ア、イヤイヤ知りません。」 他の弟子は他の弟子でね、「ぜんぜん知りません。」って言いました。 イエス様、さぞ怒ったでしょうけど、不甲斐ない弟子ですね。 イエス様も泣いたでしょう。「なーんと不甲斐ない。」まあーペテロなんか、前の日は、「私は絶対、先生の教えを守ってね、だれが来ようと、この命惜しくありません。敵が来れば、この剣で、その身体かっさばいて見せましょう。」なんて言ったペテロが、なーんと寒いからふるえながら火にあたっとったら、「おまえイエスの弟子じゃないか。」と言われて、「イヤイヤちがいます。そんなことありません。」ってしらばっくれます。 こうしてイエス様は十字架にかかっちゃいましたね。そして弟子たちはみんなチリヂリバラバラです。 イエスの死に立ち会った人はもちろん、ペテロも逃げたし、あとヨハネね、ヨハネ伝のヨハネも見てたし、あと何人も見ていましたけれどもね、当時。 マルコなんかも見てましたよ。見てたけど、マルコさん知っていますか。 最近肉体を持っておるかたですけれども、あの霊言集の編者をしている善川三朗さんていう人が、じつはイエスの当時のマルコだったんですね。聖マルコっていう『マルコ伝』書いた人だったんですけれども。 彼もひじょうにまあなんといいますかね、えー純情といいますか、動揺しやすいといいますかね。 当時二十歳ぐらいだったんだけれども、イエス様が、あの先生が十字架にかかるなんてまあおったまげてね、もう真青になっちゃいました。ブルブルブルブルふるえちゃって、もうわなないちゃってね。なにも言えなくなってしまいました。 そして聖霊が救いにくると思ってたら先生が死んじゃったので、もうショックでしばらく御飯が、三日ほどのどを通らなくなりました。 6.死の三日後、復活して成就したイエスの予言 けれどもその後イエス様が復活して、弟子たちの前に現われたのですね。それでみなさん勇気づけられて、いったとおり先生は三日後に復活して現われたと。 これがあの教会でね、なんというか、会堂で説教されたときに「この宮を壊してみなさい。私はそれを三日のうちに建ててみせるでしょう。」こういうことをイエス様はいって、律法学者たちが、これをあざわらった。「この人は頭がいかれておる。」と。 「この宮を建てるのに、神殿建てるのに何年かかったと思ってるの。何十年もかかってるぞ。それをこの気狂いは三日で建てるなんて言っている。」といってね、あざわらっとったわけです。これは悪霊にとりつかれている人だといって。 ところがイエス様が復活したあとで、その話を聞いた人たちが、「ああイエス様がこの宮壊しても三日で我は、建て直してみせると言ったのは、あー、宮と言ったのは自分自身の肉体を言ったのか。肉体をようするに破壊されても、殺されても、僕は三日以内にみんなの前に復活して見せるよ。」と。 「ああイエス様はこれを言ったのだな。」これがわかりました。 それでイエスが生前言っていた予言が成就したことがひとびとにわかりましたね。まあこれは偉大な例でありましょうけれども。 7.高橋信次の死と五年後の奇跡の予言の成就 高橋信次にも似たようなことがあったわけです。一九七六年亡くなる前にね、ちょっと前でしょうかね、私の後継者がやがて出てくるということを予言しています。 「その若者は、関西から出てくる。関西から出てきた若者が、やがて大人たちの前で法を説くでしょう。そして彼が私の遺した教えをたぶん継いでいってくれて発展させていってくれるでしょう。」こういうことを講演でね、予言したことがあります。 まあこれを聞いたかたもおそらく私のこの本の読者のなかにはいらっしゃるでしょう。その予言が成就しました。成就して一九八一年の六月には高橋信次が通信を開始しました。 そういうことで私の予言は、みごとに成就しました。 ただそうした高橋信次であっても、やはり死ぬ前というのはちょっと気が弱くなりましたね。 やはりあれだけ奇跡を起こしてひとびとを救ってきて病人を治した自分が、病気で死ぬなんて、こんなことはね、やっぱりね、この矛盾、いかにして克服するか。弟子たちはちょっと信じられない。そんなこと馬鹿なことあるわけないね。 観音寺の和尚さんなんかは、「尊師はお釈迦様のはずだから、きっと八十までは生きられるにちがいないし、そうでなけりゃおかしいし、四十八なんて冗談にちがいない。」まあこう思っていたでしょう。 そういうふうに思ってた人も多数いたし、「病気になっても自分で治すだろう。」とか、「死んだって、自分で生き返って立ち上がるんじゃないか。」と思った人いっぱいいたでしょう。 けれどもそうした私も、だんだん健康がすぐれなくなってきてね。腎臓を中心にして悪くなって、やせ衰えてきました。なんどか入院もしたし、ゲッソリやせてね、立っているのがやっとの思いでありました。 最後のほうはずいぶん体重も減っちゃってね、やせました。そして息も苦しくなりましたね。 そして六月、妻が止めるにもかかわらず、東北講演を強行しました。覚えている人いるでしょう。GLAでかつて私の話を聞いた人たちも、覚えているでしょう。 五月に富士休暇村だったかな、国民休暇村かなんかで私は講演して、そしてまた東北へ行きましたね。 最後の講演、あのときもう私は息も絶え絶えだったのだけど、みなさんの前で力をふり絞って最後の講演をしました。 あの私が吐く息、吸う息の苦しさ、たぶんみなさんわかってくれたと思いますけれども、私はやはり生命燃え尽きるまでね、みなさんの役に立ちたかったのです。一言でも多く言いたかった。 そういうことでまあ、東北講演から帰って、まあ二週間もしないうちだったかなあ、七十六年六月亡くなりましたけれどもね。 ちょうど五年後に通信したわけです。 私も最後は、そういうふうに混乱しとったから、やっぱり自分が死ぬということを信じられなくなってね、天上界の霊たちは、「五年後、五年後。」ということをやたら私に言うんだけどね。 「五年後奇跡が起きて、その奇跡がおまえを救う。」と言うんですよね。天上界の霊たちが、「五年後大きな奇跡、一九八一年に大きな奇跡が起きて、その奇跡がおまえを救うだろう。」と。 「そのときにおまえの教えが、ようするに継がれるだろう。」ということを言うんですね。天上界の霊たちが、いろんな霊が。 だから私はそのとき、やっぱり四十八で死ぬってちょっと早いしね、自分の寿命が四十八歳て書いてあるけれども、やっぱりそんなことないじゃないか。 「私も五年間は生き延びることになりました。」なんて講演で言ったことがあります。聞いたことあるでしょう。 それは「五年後におまえを継ぐ人が出てくるから。そして五年後おまえは救われるんだ。」と。「そして仕事がおわるんだ。」ということを言われたんでね。 まあそういうふうに善意に解釈したわけですね。これでまた混乱が起きましたね。そういうことで混乱が起きました。 そしていよいよ死ぬ段になって、私の死ぬ段になってね、やっぱり、後継者の指名をしなければいかんので迷いましたね。このへんの混乱はみなさんよくご存じのはずです。 8.九次元大加来の死後あとを継げない弟子たち 後継者をだれにするのかについては、釈迦が没するときにもやはり同じような混乱があったんですね。 あまりにも釈尊が偉大すぎて、あと、法を継げる人がおらんのです。法を継げる人がいなくてね、まあいろいろ弟子はいましたけれどもね。 たとえばマーハー・カシャパーという人が、迦葉仏(かしょうぶつ)ですね、迦葉尊者(かしょうそんじゃ)が、たとえば二代目になったとする説もあるけれども、迦葉尊者と釈迦じゃやっぱり差が大きすぎたし、けっきょく釈迦の教えをすぐ継いでいけなくて、集団指導体制になったわけですね。やっぱり高弟たち、釈迦の高弟たちが集まって集団指導体制をしくことになったわけです。 そういうことになって、まあ有力な十大弟子たちで残っておる人たちが集まっていって、あとね、法を継いでいったわけですね。けっきょく継げる人いないんです。ひとりで。尊師が大きすぎるから。たいていそうなんですね。 九次元の指導霊が出たときに、その二代目の人は、そのあとを継げないんです、普通は。 イエス様のあとだって、ペテロがイエス様のあとを継げたかといったら、まあ継げていないですね。まあ無理でしょう。 最初の教会をようするに建てた人、「ペテロよ汝の上に教会が建てられるべし。」というようなことをイエス様は言ったけれども、まあ継いだといえばそれほどのもんじゃないでしょう。 パウロはもちろん伝道に力があったけれども、イエス様との差が大きすぎます。 そういうことで、私が亡くなったときにもやはり、私の弟子たちとはちょっとね、力の差がやはりあったようです。口はばったいことを言いますけれども、やはりあったようです。 ですから、後継者の指名がやはりむずかしかった。私は、やはり死ぬときには、人間バトン・タッチすると思ってたから、やっぱりいろんなことを言いましたね。 まあみなさんご存じだからこのへんははっきり言いませんけれども、その後GLAが混乱したことはご存じの通りです。 私の正当な後継者が五年後に出るとは、まあ、はっきりわからなかったですからね。 まあ後継者というのは失礼でしょう。 おそらく読者の多くは、彼の本を読めばわかるように、イエス様も出れば、モーゼも出れば、天照大神も、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)も出ておるし、孔子様のようなかたも出ております。 まあこうしたかたですから、単なるGLAの後継者なんていうのは、口はばったくて私はちょっと言えません。そうしたもんじゃないでしょう。 GLAの教えよりも、はるかに大きなものが集まります。もっと大きなもんなんで、これは後継者といえなくて、やはりたぶんもっと発展させるかただと思います。 私は逆にね、露払いだっただろうと思いますけれども。こういうことがありました。 ただGLA混乱の責任が私にもあるんで、これをなんとか霊言集をいっぱい出して修正したいと、こういうように思っておるわけです。 9.五年後の復活の予言は成就した。かつての弟子たちよ一本化せよ ですから私のこの本を読んでね、どうか私の死後混乱した弟子たちにね、もう一回ね、一本になって、まとまってきてほしいと、私は強く願ってます。一本になってほしいんです。まとまってほしいんです。 高橋信次がいまね、指導霊をしておることがどういうことかね、かつての弟子たちはわかるはずです。ここをよりどころにして一本にならなきゃいかんのです。 そうしてくれないと、まあ先生、いちおう成仏はしておるけれどもね、ほんとうの意味での成仏はできんのです。 もう九次元で私は落ち着かないのです。いろんな諸霊からいろんなことを言われてね。 孔子様からはね、ずいぶんなことを言われるし、まあ生前孔子様にはね、「いや―孔子様は神界の人です。六次元神界の人です。」なんて私が言ったもんだから、まああの世ではずいぶん、もちろん、きらわれています。当然のことです。 イエス様なんていうのはね、昔イエス様が地上にいたときには、高橋信次っていうのは、まあこういう安っぽい名前じゃなくて、そのころには、いちおうエホバとかいう名前で呼ばれていましたから、イエス様も私のことを父と呼んでくれたことがあります。 しかしいまはね、GLAの混乱を見て、イエス様は私を見捨てたといいましょうかね、「もう父と呼んでやらない。」と。 「私は子ではありません。あなたは父ではありません。私は子でもありません。父でも子でもありません。どちらかというと、私のほうがもう偉いでしょう。高橋信次さんは、まあ、あの混乱を収拾しないかぎりね、もう私たちの尊敬を受けることは、まずないでしょうね。」 横からモーゼが「ウン、そうだ、そうだ。」とうなずいています。 そこで高橋信次が怒ります。「おまえ、なにをうなずいておるか。」とね。「私の指導霊はおまえであったはずではないか。おまえがちゃんと指導せんからこんなふうになったのに、それでうなずくとは何事であるか。」まあこんな話をいろいろやっておるわけです。 まあ話がずいぶんそれましたけれども、けっきょくね、私がいいたいのは、私もイエス様になぞらえるわけではありませんが、イエス様は三日後でしたけれども、私は五年後に復活しましたんでね、私の予言が成就したってことをひとつ知ってほしいんですね。 こういうふうに光の指導霊が出るときには、かならずあとに出てくる人たちのことを予言するのですね。これは、もう決められているのです。あの世の約束なのですね。予言というのをします。 10.ノストラダムスの予言による人類危機の時代 さて前置きがずいぶん長くなりましたが、きょうの本題である予言のほうに入っていきます。ノストラダムスっていう人の予言を知っておられるかたはもう多いでしょう。 五島勉さんという人がいろいろ翻訳を出されて、ひじょうなベストセラーになりましたね。祥伝社から出てずいぶん売れました。みなさんも読まれたでしょう。ご存じのかたも多いと思います。 そしてまあノストラダムスはまあ、一九九九年の七月にたいへんな天変地異があって、人類が滅亡するような恐ろしいことを恐怖の予言書に残しているということになっております。 まあそういうことでこれから、いま、八十七年ですから、あと十二年でね、ほんとうに人類は滅亡するのか、これはもう秒読み段階になってきて、たいへんなんですね。あと十二年で人類おわっちゃうなら、あなたたいへんですよ。 これから結婚なんて、やめたほうがいいですね。結婚したら子供なんて作っていたら、学校上がって、中学校上がる前にもう死んじゃいますから、そういうような殺生しちゃあいけないんです。だからほんとうは結婚なんかできないのですね。だからこれから結婚式場はぜんぶつぶれていきます。 それから生命保険会社ね、これもぜんぶつぶれますね。 みなさん生命保険会社もう早目にやめたほうがいいですよ。一九九九年にみな亡くなっていくのに生命保険、なんの役に立つんでしょうね。三十年満期とか五十年満期でやっとる人いっぱいいますけれど、なんの役に立つんでしょうかね。 そしていろんな人が死んだら、生命保険会社はどうなるんでしょうね。もう払えないと思いますよ。 まあ冗談半分に言っとくと、生命保険会社はいまは儲かっとるでしょうけれども、これからの若い人は、あんまり就職しないほうがいいですよ。たぶん会社がそうとうつぶれると思いますよ。 こういうノストラダムスの予言があるのですからバタバタ死んじゃって、それで保険会社、お金いっぱい取られちゃって保障できなくなってね、つぶれちゃうかもしれませんよ。 そういう意味で、あと十何年すると業界の大不況が起きるかもしれません。まあこれは話半分にいちおう聞いておいてください。保険会社から文句が来るといけませんから。 それでノストラダムスは予言しておりますけれども、じゃあ、そのへんのことをね、ちょっと高橋信次も一発しゃべってみようかと。新しい手でね。その真意はどこにあるのか。そしてそのあとの世界があるのかどうか、こういうことですね。 ノストラダムスはたしかに一九九九年までにたいへんな災害、天変地異、不幸が起きて、人類の大部分が壊滅的な打撃を受けるということを予言しています。これははっきりしているのですね。 そういうことで、まあその事実、そのものについて聞かれるとするならばね、それはあるていどイエスと言わざるをえんのです。これからそうとうな、やはりダメージがあるでしょう。 やはり地震。地震はもういっぱい起きてきますね。地震、それから火山の噴火。これも、いろんなところで起きていますね。アメリカとかね、あるいは中南米ですか、大火山の噴火ありましたね。そういうのがあるし、地震も瀕発(ひんぱつ)しています。 これ以外にも津波、こういうこともあります。干魃(ばつ)もくるでしょう。 こういうふうにあと十年でひじょうに厳しい時期が人類を襲って、その間死者もそうとう出るでしょう。 地震だって、あれはナマズが手加減しておるから、そんなに死なないだけであって、地下のナマズが本気で暴れたら、これは超高層ビルだって倒せるのです。エンパイヤーステートビルだって倒そうと思えば倒れるのです。ナマズが暴れまくったらね。それは倒せるのですよ。 ただ手加減しているからいま、倒れていないだけで、やがてそういうことも起きてくるでしょう。まあこれはあるていどやむをえないです。 11.しかし人類は死に絶えない ただね、全人類が死滅するようなことはないのです。それが死滅するなら私たち霊言出す意味がないからです。 たとえ出版社のひとつやふたつが炎上したところでね、まあこの本さえ残ればね、のちの世の人たちには福音になるけれども、出版社は炎上したけど、人類もみんな死んじゃって、東京は焼け野原になって、人っ子ひとりもいなくなって猫一匹もいなくなると、なんのために私がいま、霊言集を出しているかわかりません。こんなの意味がありませんから、そういうわけではありません。 もちろん人は残るのですね。だからやっとるわけです。またそのためにやっとるわけですね。残された彼らがようするによりどころにすべき法、これがないからね、霊言集を出しているわけです。 昔ならばそれは、五か条の御誓文だとかね、天皇の詔勅(しょうちょく)だとか、詔(みことのり)とか、いろいろあったでしょうけれども、これからはね、混乱の時代に心のよりどころがなくなるから、いま私たちはこうやって霊言集を出しておるんです。 みなバイブルになるんですよ。これからの人類の。二十一世紀の。 それでまあノストラダムスの予言があるけれども、ノストラダムスは同時に、はっきり言っていますよ。「ヘルメスが甦るだろう。」と。 このヘルメスが甦るというのはどこかというと、東の国というのは日本なのです。まあこのヘルメスというのを文字どおりギリシアの時代の神様と思っちゃあいけませんけれども。 ギリシアの神様というのは、ヘルメスというのは、そうですね、繁栄の神、発展の神であり、芸術の神でもあったかたですけれどもね。ちょうどいま、日本の時期に合っているかもしれませんが、このヘルメスが甦るということをノストラダムスは言いました。はっきりと。 まあこのヘルメスがだれにあたるかみなさん読者のみなさんわかるでしょうけれども、ただそれはね、ヘルメスという個性を持った人がそのまま生まれ変わってきたということじゃなくてね、ヘルメスのようするに生命体がね、この日本に生まれ変わってくるということなんでね。 まあヘルメスの生命体はなにかっていうと、みなさんご存じでしょうかね。 あと、有名なかたは、リエント・アール・クラウド、それからブッダ、ゴーダマ・ブッダ、ラ・ムー、トス、こういう人たちが同一生命体の魂のグループなのですよ。 だからそのグループのなかのだれかひとりが生まれ変わってくるということですよ。そういうふうに理解してくださいね。 こういうふうに、ノストラダムスは恐怖の戦慄(せんりつ)の詩を残しましたけれども、それ以外に希望の原理を入れました。 光の天使たちが地上に出て、世界を救う。そしてヘルメスが末法の世を救い、東の国から起きるヘルメスの繁栄が、やがて世界を救うだろうと、予言しました。 このときに、西暦二千年にこうして私の予言もおわるというふうに、彼は言いました。 なぜ彼の予言がおわるか。 それは新しい、いわゆるヘルメスの時代になって、新たな予言が説かれていくからです。新たな教えが説かれていくからですね。それでノストラダムスの使命がおわったということです。そういうことなんです。 12.この霊言集こそ、未来の黄金時代のためのバイブル ですから、これから、新しい時代が開けてきます。みなさんその福音のために私たちは、いろんなことを言っておるのです。 まあ二千年、あるいは二千十年ぐらいまでは、いろんな混乱が起きますよ。たいへんな混乱がね。 ただそのあとには、黄金時代が出てきますよ。だんだんに黄金時代が出てきます。これははっきり言っておきます。その黄金時代の基礎になるのは、いま、私たちが出している、この霊言集なのです。 みなさんね、とくに出版社の人もよーく聞いてほしいけども、自分たちの仕事の大きさの、この使命をはっきりわかってほしいのです。 これはほんとうは出版社のかたに儲けてほしいという気持ちはないわけではありませんよ。もちろん儲けていただいてけっこうだし、ビルが建っていただいてけっこうなんだけれども、それだけじゃないんです。目的はね。 これがほんとうにこのかたがね、のちの世の人たち教っていくのです。まず日本の人たちを教っていきます。そしてそこに起きた大きな教えがね、海外に広がっていくんです。もうはっきりしているんです。 昨日もいいましたけれども、東南アジア、オセアニア、そしてヨーロッパやアメリカやそれから中国、ロシア、アフリカ、みんな広がっていくんです。 だから二十一世紀まで、ひとびとの福音になるのは、私たちが出しているこの霊言集なのです。これは、はっきり言っときます私は。 これがバイブルなんです。本当のバイブルになるんです。これがバイブルになって、これからね、いま二十世紀ですけれども、おそらく四十世紀、五十世紀まで読み継がれるのです。まちがいないです。 その間に高橋信次が出した何冊かの零言集はね、一部はなくなるでしょう。破損されたり、あんまりおもしろいことを言っているから、これは偽造じゃないかとかね、いって削られるところもあるかもしれませんけれども、私が残した霊言書の何冊かは、おそらく、あと二千年後ぐらいまで、残っていくと思います。このためにいまメッセージを送っているのですね。 ですからみなさんね、ポスト・ノストラダムスの時代と、大きなことを私言いましたけど、まさしくね、この霊言集の刊行、これがね、ノストラダムスのあとの時代なんです。これの幕開けなんです。幕開けを告げる鐘なんです。鐘の音なんです。警鐘なんです。まちがいないです。絶対にまちがいないです。これだけ私は言っておきます。 この私たちの霊言集こそ、ノストラダムスのあと残って時代を創るための書物なんです。ですがらいまね、初めてこの本が出てすぐそれを書店で買って読んでおるような人たちっていうのはね、ひじょうに感覚の鋭敏なかたですね。いまこれがわかるなら。 ぼんやりしておる人というのは十年、二十年たってから、読むんです。 これが出て、すぐに読む人というのはね、それだけ感覚が鋭敏だし、すばらしいことです。 だから私は前半でね、GLAの混乱の話をしましたけれども、早くみんな一本にまとまってね、この救世運動に参加してほしいと思います。かつての弟子たちも早く一本化してきてほしいと思います。 どうか、そういうふうに思っていますので、みなさんも私の教えをしっかり聞いて、そして一日も早く悟ってください。お願いします。
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高橋信幸はデッツォーラ島根所属のGK 基本情報 国籍 日本 名前 タカハシ ノブユキ 生年月日 1984年2月21日 出身地 島根県出雲市 身長 186cm 体重 72kg ポジション DF 背番号 所属クラブ 1999年 - 2001年 星槎国際高校 2002年 FCザールブリュッケン(ドイツ) 2007年 - 2009年 沖縄かりゆしFC 2010年 - 現 在 デッツォーラ島根 個人成績 シーズン クラブ 番号 リーグ リーグ リーグカップ オープンカップ 通算 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 2007 沖縄 21 九州 11 0 - 3 0 14 0 2008 14 0 - 3 0 17 0 2009 6 0 - 2 0 8 0 2010 島根 中国 - 通算 日本 中国 - 日本 九州 31 0 - 8 0 39 0 総通算 31 0 - 8 0 39 0
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目次 1.大自然の中の芸術と科学 2.流転する水のすがた 3.太陽からの地球の誕生 4.四十五億年前、太陽の一部が軌道を飛び出した 5.三十五億年前、隕石の地球への直撃で飛び出した月 6.神の意思による惑星の創造 7.隕石によってえぐられてできた太平洋 8.空中に火花が散って酸素と水素が水をつくった 9.山と谷、川と海の出現 10.高等生物の陸地への出現 11.海中の生物の出現 12.人類の出現は、異星からの移住と地球での創造の両者があった 13.質量イコールエネルギーというアインシュタインの理論 14.人体創造の原理 15.質量になっていない生命エネルギーが魂の実体 16.生命エネルギーのコントロールタワーとしての心 17.色心不二・色即是空・空即是色の本当の意味 1.大自然の中の芸術と科学 皆さん、こんにちは。今日は第6章、「心と科学」という題で話します。今日は、八七年の一月十三日なんですね。皆さん一月十三日の午後、今、五時半です。今日は、めずらしく雪が降りまして、この辺も、杉並も一帯が雪だらけですね。で、あの世から見ていると、ああ雪が降っているなあと思って。寒かっただろうなあと思ってね。地上で雪降っても、こちらは全然雪が降らないんで、どんなもんかなあって思って、感覚が失われているんですけれども、まあ地上人の皮膚の感覚からいくと、この雪の寒さというのはこたえるでしょう。 これは、私たちにはもう皮膚がないから、雪ってどんなんかなあってなつかしくなるのですね。手ざわりとか、あるいは冷たさがどんなもんかなあって感じがします。まあそういうことを枕詞(まくらことば)にして、今日は科学の話も多少していきたいと思ってます。 まあこの地上っていうのは、非常に神秘的なことで、みたされているのですね。たとえば雪なんかもそうです。神秘的ですね。なぜ海があって、川があって、なんと水が蒸発してね、そして雲をつくってそれから雲が一定の時に、また雨を降らし、また寒くなると、これが雪になってきますね。 ああいう雪とかいうのを見てると、ほんとう、神秘的ですね。顕微鏡で見ると雪の結晶ができていて、それが、雪印乳業ではありませんけれども、非常にきれいな結晶になっているのですね。まあ、ほんとうに科学現象でしょうけれども、ああいう結晶ができることを見てたら素晴らしいですね。 だからこの大自然の中で起きることも、やはり一つの芸術だというのが、あれを見るとよく分かるのですね。ああいうふうにきれいな結晶になるわけですね。まあ、神様のおつくりになったものにおかしなものがないと言いますけれども、まさしく、その通りですね。 2.流転する水のすがた 雪だって、ああいうふうにひらひらひらと一ひらの雪になって、地を埋め尽くしてね。子供たちは、その雪で雪ダルマをつくったり、あるいは丸めて雪合戦をしたりしている。こんなことをしますね。だから神様って、すいぶん芸術家だなあっていうことがあれを見てわかるでしょう。 そんなことをする必要はないですね。本当はね。雪を作るなら直径五メートルぐらいの雪作ってね、雪ダルマ作って上からどんどんどんどん落としゃいいんですよ。そうするとあなた、地上はもう地獄ですよ。空襲警報が「ウィーン、ウィーン」と鳴りまして、「直径五メートルの雪が、これから降ってきそうだから、皆さん避難しなさい。普通の民家の家屋はとても耐えられないから、みんな防空壕をつくりましょう。そうしないと、天から降って来る雪ダルマにとても太刀打(たちう)ちできません」と。まあ、こういうふうにして神様が地上の人びとをいじめようと思ったら簡単なんですね。 それから、雨だって、あんな直径一ミリの雨でなくて、バケツをほんとうにひっくり返したようなのが、どんどんどんどん上から降って来たのなら、もうたまったもんじゃあありません。もう、稲も何もみんなまいっちゃいますね。人間だって外へ出ていったら、傘なんか吹っ飛んじゃいます。ものすごい衝撃力ですからね。 雲っていうのは、高さ何千メートルの高さです。そこから、バケツ一杯分ぐらいの水玉で雨が降ってきたら、もし、いきなりそういう水玉が降ってきたら、人間の頭に直撃すると一コロです。もうペタッと地べたの上にのびちゃって、カエルみたいになってしまいます。けれども、そういうようにしない。実に繊細につくってあるんですね。 そぼ降る雨、霧雨ね、あるいは春雨、「春雨じゃ、ぬれてまいろう」という春雨もあれば、まあ恋人同士の語らいの時には、霧が出るんですね。霧がたちこめて、ガス灯かなんかがこう曇ってる。こういうふうな情景が出て来ます。 またこの雨が降ったり、雪が降ったりしたのが、大地にしみこんで、そして地下水になっていきます。地下水から今度は川の中へ流れ込んでいきます。そして、川は上流から下流へと流れていって、大海に出ますね。 海に出ると、海の中では今度は塩水になっていますね。あれも面白いですね。海の中が塩水になっている。なんで塩水になっているのかなあ、と思う人も多いでしょう。皆さん、なぜ海が塩水になっているのか知っていますか。この霊言集の読者の中で、なぜ海の水が塩水になっているか答えられる人がいるでしょうかね。たいていの人だったら、「そらあ塩水になっているのは分かっていますよ。これは塩が入っているからですよ。だから、塩水なんです」こんな答えをする人がいるでしょうけれども、こんなの答えになっていないのです。 3.太陽からの地球の誕生 地球ができてから、もうすでに四十五億年たっています。そして海ができたのは、今からだいたい三十五億年くらい前です。地球は四十億か四十五億年前に巨大な火の玉だったのです。火の玉というとみんな誤解しちゃいますけれども、本当の火の玉なんですね。地球のそもそもの祖先ですけれども、どうしてできたかっていうのをみんな知っているでしょうかね。 地球っていうのは、太陽から出て来たのです。太陽っていうのは、直径が地球の百九倍ですからね。直径が百九倍あると、これは体積でいくとものすごいです。この三乗倍違いますから、私はちょっと計算機があれば計算できますけれど、あの世の霊が計算機使ったら誤解を生むから、まあこれはやめときますけれど、皆さん各自で計算して下さい。百九倍の三乗です。ものすごい体積の差があります。ですから皆さん、太陽は太陽、月は月、地球は地球っていうふうに、独立した惑星のような、天体のような感じでいるけれども、実際は、そんなもんじゃないんです。 えー地球の誕生っていうのはね。さきほど言った雪ダルマがありますね。英語でスノーマンですか。直径一メートルぐらいのを二個くっつけてつくるんだけど、上が、ちょっとちっちゃいけどね。一メートルぐらいの雪ダルマをつくって、これを太陽とすると、地球っていうのは、何かっていうと、子供が投げている雪の玉ね、これほどもないんですよ。まあ大きさの比率でいくとね。比喩(ひゆ)で私は言うとるんだけど、どうだろうね。 札幌か何かで雪祭りをやっていますけど、雪祭りで大きな家を建てたり、建物つくったり、そのうち札幌の雪祭りで大きな高橋信次の像かなんか立つのを私は希望していますけどね。生前、神理を説かれた高橋信次先生の偉大なる像ってことでね。イエス様の像か何かと並べてくれて、腎臓病になってやせる前の、高橋信次の太ったふくよかなニコニコした顔の雪の像か何かできるのを私は希望していますけど。札幌市民、よく聞きなさい。 それで高橋信次の像が二十メートルぐらいの像としようか。こういう巨大な高橋信次の像ができた。偉大ですね。本人の考えどおり、偉大な雪の高橋信次像ができたとしましょう。 もちろんネクタイしてますし、背広を着ていますし、お腹がちょっと出ていますけれど、町工場の社長っていう感じの雰囲気が出ています。町工場の社長で、しかも偉大なる聖者の風格がどことなくただよっている。しかも頭がちょっとはげとって、頭のところどころに昔、針かなんかでつつかれた穴があいておると。で、毛がチョロチョロと生えておると。こういう偉大な人の像ですね。これが立っとるわけです。 そしてギロッと目をむいてね、目から光が出ているような雰囲気で、そして「光、高橋信次」あるいは、「心と行いを正せよ」なんていう言葉も発している雰囲気で、こういう雪像ができます。 すると高橋信次のくちびるの辺(あたり)がちょっと欠けちやって、子供が石ころか何か投げて、あるいは、野球のボールを投げて高橋信次の偉大な雪の像のくちびるへんにポンと野球のボールが当たりました。そして、高橋信次のくちびるがちょっと切れましたね。ポロッポロッとかたまりが落ちました。このくらいの大きさが地球なんですよ、皆さん。 太陽と地球っていうのは、この程度の大きさの差があるのです。だからほんのちょっと、ポロポロなんですよ。あるいは高橋信次が涙をポロッとね。高橋信次の雪像から涙がポロッと一つ出ると、それが地球になるのです。この程度の大きさの差があるのですね。 4.四十五億年前、太陽の一部が軌道を飛び出した こういうふうに今から四十五億年前に太陽の一部が、その軌道を飛び出したのです。何で飛び出したかって、それは太陽が妊娠したんです。妊娠したって言っても分からないか。お腹が大きくなって子供を産んだのです。それでも分かんない。ああそうですか。そうすると、こういうようにと神様が命じて、「お前チョット子供を産め」って言うんで、「わっかりました」って、回転していてピーンと飛び出したんです。一部がね。 それは、なぜ飛び出したか。飛び出したくなって、飛び出したんです。まあ、それは神様のご意思でね。惑星をつくるとき意思があったんで、太陽もいっぱいかたまりを持っているから、まあちょっとぐらい子供を産んでもいいなあっていうんで、ポーンと出したんです。 これが飛び出して、太陽のまわりをグルグルまわり始めました。これが地球です。 5.三十五億年前、隕石(いんせき)の地球への直撃で飛び出した月 そしてそのうち、今から三十五億年ぐちい前でしょうかね。月というのができました。まあ月っていうのは、皆さんどうやってできたか知っていますか。皆さん、月はね、やっぱり、地球が子供を産んだんですよ、実際は。なんで地球が子供を産むのって、まあ、それは、地球は女性なのですかって聞く人もいるでしょう。女性のような、男性のような、それは分かりませんけれども。 大体三十五億年ぐらい前ですね。子供を産んだのです。その頃に、今、地球は、公転運動って太陽のまわりを廻っていますけど、異変が、ちょっとあったわけですね。異変があって、公転のコースがちょっとジグザグになりました。それと、その頃、地球が巨大な隕石(いんせき)の直撃弾を受けましてね。三十五億年ぐらい前です。こうして、そのショックで地球の一部分がドーンと飛び出したんです、こうして、今の太平洋の部分が主としてできたのです。えぐれたんです。ポーンと、飛び出したんです、破片が。そして、それが地球のまわりを廻り始めました。で、やがて形がととのって、現在のような丸い月になりましたね。 そういうことで、地球から飛び出して、地球の圏外に出た月ですから、空気、酸素がないんです、実際ね。そういうように急激にできたんです、あれは。 6.神の意思による惑星の創造 そういうふうに、いろんなことがあって、惑星とか星ができるんですね。 これ以外にも、もちろん宇宙のガスが集結して、惑星ができる場合もあります。だから大きな惑星が子供を産む場合と、それから宇宙の大気のガス、こういうものが宇宙塵(じん)って言いますけど、塵(じん)っていうのは塵(ちり)ですよ。これが集まって、渦巻(うずま)いて、やがて何か火花のように散って、そして、それが惑星になることがあります。 なぜ、そんな宇宙のゴミが集まって、ガスが集まって火花散らして、一つの星を創るかというと、これが神様のご意思なのですよ。偶然じゃあないんです。偶然で星なんかできやしないのです。もちろん、つくろうと思ってやっとるんです。 だから神様の一念が定まって、この辺に惑星をつくろうと思うと、宇宙のいろんなゴミだの、ガスだの、いろんなものが凝集してくるのです。凝縮してくるんですね。そして一つの渦巻きをつくっていく。それから、渦巻きの中で火花みたいのが散り始めて、爆発なんか起きてきます。そしていつの間にか、そういうふうに高度に、灼熱化して炎というのが出て来て、そして宇宙のいろいろな隕石だとかゴミだとか燃やしちゃいますね。で溶かしちゃいます。そしてドロドロしたものができてくるのです。やがて、それが冷えてかたまってくると、一つの惑星になるのです。 こういうふうにしてできた星がいっぱいあります。ですから太陽系の中にも、地球のように太陽の軌道を飛び出してできた星もあれば、あるいは、そういうふうに宇宙のがスが結集してできた星もあります。いろいろです。 で、神様はそんなことをやって楽しんでいるのですね。地上のあなた方は、ニワトリが卵を産むと、その卵をゆでたり、あるいは目玉焼きにしたり、卵焼きにしたりして楽しんでいますけれども、神様というのは、卵を焼くかわりに、惑星をつくって楽しんでいるのです。そういうレベルの差があるのですね。まあ、こういうことです。 7.隕石によってえぐられてできた太平洋 それでまあ海の原形みたいなのは四十五億年ぐらい前からちっちゃいのがありましたけれども、主として三十五億年前に、地球から飛び出して月ができた時に、大海ができました。これが大平洋のもとなのですね。えぐられたんです。 だから、その当時の話をすると、巨犬な隕石が近づいて来て、大気圏内に突入したんですね。そして燃えながら猛烈な勢いで、今の太平洋があるあたりに突っ込んだのですね。 それで、その熱のために隕石は燃え尽きていったんですけれども、その衝撃力で、破片が飛んだのですね。地球の破片がドーンと飛びました。 そして、深さがどうでしょうか、深さ一万メートルか二万メートルか分かりませんけれども、そのくらいポコツとえぐられたんです。そして表面が、はがれ落ちて飛んしゃったんですね。そして月ができました。 それで地球は、そういうふうにかみつかれたリンゴのような形で、しばらく廻っとったんですよ。歯槽膿漏(しそうのうろう)の宣伝にありますけど、そういうガブッとかみつかれたリンゴがクルクルクルクル廻っとったんですね。 だけどクルクル廻っていると、かみつかれたところがあると空気の抵抗がなくて、なんかギクシャク廻っちやうんですね。これじやあ青森リンゴも売れませんから、何とかこの辺を、へっこんだところを埋めにゃあいかんということで、いろいろ神様考えたんです。神様何したらええかって、いろいろ思ったのです。土がないからね。土があったら土で埋め立てするけれど、持ってくる土がないから、水で埋め立てしちゃおうかっていうんで、もう水入れちゃえということになったんですね。 8.空中に火花が散って酸素と水素が水をつくった それでまあ、その頃ね、まだ地球上には、はっきりした生命体がなく、生命体が必要とする今のような空気っていうのがなかったんです。しかし、モヤモヤしたガスがいっぱい包んでおって、その中で、とりあえず、酸素と水素を選(え)り分けて、水の原形みたいなのをつくるべしということになったんですね。 空気中の中には酸素と水素がいっぱいありました。ですからとりあえず、じゃあこれでね、酸素と水素を結合して水をつくるべしということになったわけです。 それで、地球の中のマグマなんかを何度かポンポン噴き出させましてね。そして、そういう化学反応を空気中でだんだん起こしていったのです。三十五億年前、あるいは三十二、三億年前でしょうかね。その頃の地球っていうのを霊視しますと、空中で火花がパチパチと散っています。あるいは、これは見ようによったら、稲妻みたいにも見えるし、真空管の中で炎が飛んでいるように、パチパチパチパチ火花が飛んだのです。空中を、いろいろと。そして酸素と水素が結合したんですね。 まあ私は初歩の理科の話を、今しとるんだけど、もう大人になった皆さんは、どうして水ができるか、もう忘れちゃったでしょう。お子さんの小学校四年生の理科の教科書を取り出してよーく読んでごらんなさい。ね、小学校四、五年生の教科書に書いてありますから。酸素と水素が結合すると水ができるって書いていますね。 水素というのは「H」です。元素記号は「H」。それから酸素というのは元素記号「O」です。そして水素原子二個と酸素原子一個とで水ができます。これを「H20」といいます。 酸素というのは手を二本持っていて、水素というのは手が一本しかないのですね。片っぽしか手がないんです。「酸素さん、酸素さん、何とか手をつないで下さいよ」酸素は、「いいよ。僕は手が二本ありますよ」って。「そうですか。僕は手が一本しかないけど二匹いるからつかんでくれませんか」ってね。酸素は両手を伸ばしてパチツとつかみますね。 大体が男性ですね、酸素っていうのは。奥さん以外に妾(めかけ)さんがほしいのですね。お妾さん、二号さんがほしいんです。奥さんとお妾さんと、二人いれば満足と。これで水ができたんです。水の誕生です。 9.山と谷、川と海の出現 そして空中にそういう雷みたいのが変じて、だんだん水ができて、湿(しめ)ってきました。バリバリバリバリ火花が散って、そして、その水は重くなってきて、下に落ちてきます。下に落ちてきて地上を湿らせてきました。だからいろんなところが湿ってきたのですね。 水はやっぱり高いところから低いところへと流れていきますね。つまり、ちょっとでもくぼんでいるところへ流れていきます。そういうことで、だんだん川ができてきました。川ができると同時に、山ができてきます。高いところが山になって、低いところがどんどんけずられて谷になって来る。それで大きな川ができてきて、その川が、さっき言った太平洋のえぐられたところに流れ込んできました。 こうして太平洋の中が空っぽだった、そのえぐられたところに水が入って来ました。よかったですね。水が入って来て、何とか地球も、えぐれた頬(ほ)っぺたがちょっともどってきたんです。これで安心しましたね。水をいっぱいたたえて、だんだん機嫌よく廻り始めたんです。こうして青い地球っていうのができてきましたね。 まあ地球の歴史を語れば、私はいくらでもしやべれるんだけれども、今は、いいことはもうちょっと後にかくしといて、まあ大昔の話だけに止めておきます。 10.高等生物の陸地への出現 さて、その上うにして地球ができました。そして以後、月ができて三十五億年たって、今から六億年ぐらい前でしょうかね、陸地に高等生物がすみ始めましたね。その頃、原始的な生物はすでにすんでおったのです。そしてだんだん、知的な生物がすむようになってきたんですね。 そして、今から三億数千万年くらい前になって来ると、地球にはかなり高等動物がすむようになってきました。今で言うと、哺乳類(ほにゅうるい)のたぐいだね。彼らがもう出てたんです。そして今年はウサギ年だけれども、ウサギみたいなのもピョンピョン跳(と)んでおったし、あるいはネズミみたいなのもいたし、まあネズミが多かったけれどもね。 三億年くらい昔には、一方では恐竜みたいなデカイのもだんだん出てき始めましてね。地球は、まだちょっと熱帯に近くて暖かかったのです、全体にね。それで植物の繁茂(はんも)が非常に素晴らしかったのです。そして大きめの動物が、どんどん巨大化してきました。 11.海中の生物の出現 一方、海の中で魚のもとになる生物がすみ始めたのが今から、そうですね、二十数億年ぐらい前でしょうか。その頃から魚のもとになるものが、あったんです。小さな海の中にそうした生物が出て来て、数億年前にようやく、大きな魚がすむようになってきました。 海の中に生物がすむようになったきっかけは何かっていうと、オパーリンとかいうソ連の学者がいてね、そして何というか、本来タンパク質のようなかたまりが、ともに反応し合って、そして、アメーバーのようなものができて、それが大きくなって生命の誕生になったと、こういうふうに言っていますが、これは当たってないんですね。 現象としては、その通りなんですけれども、そういうふうな微生物ができた背後には、やはり微生物相応の魂があったのです。つまり地球の表面上には、いろんな生命体の磁気みたいなのが満ち満ちていてね。もちろん、ちっちゃな生命ですけれども、生命の息吹っていうのが影響して、最初の生命が産まれたのです。 で、その生命体の息吹を、吹き込んだのが何かというと、やっぱり高級霊たちなのですね。高級霊たちが、そういうことをやったんです。そして、生命の誕生というのを、あの世から指導しながらやっていたんですね。 だから適当なタンパク質のかたまりができて、そこに生命の吹き込みをやりました。こういうことを初期にやっていたのが、お釈迦様といわれているけど、そういう方がたが、天上界でやっとったんです。そして生命の吹き込みやって、それがモゴモゴと海の中で泳いでおったんです。それから、だんだん海の中に適応するような魚のような形になってきました。 また植物が地上に繁茂(はんも)し、やがて動物が出てきました。えー、こうして準備ができたんですね。 12.人類の出現は、異星からの移住と地球での創造の両者があった その時に、三億数千万年前に、現在の肉体を持っておる人類の大部分は、地球をはるかに去った、何億光年も去ったベーター星というところがあるんですけども、そこから飛んで来たのです。円盤に乗ってね。それが最初の人類でした。人口は、まあ六千万人ぐらいいましたけれどもね。それが今のエジプトのナイル川の三角州あたりに最初着陸しまして、そこに住み始めたのです。 その頃は、地球は食べ物も多く、美しいきれいな星になっていましたね。そしてだんだん子孫をふやしていったんです。 けれども、これ以外にも、また人類の創造はなされました。地上にいろいろな生命をつくったようにね。人類の創造というのも、なされたことがあります。 13.質量イコールエネルギーというアインシュタインの理論 これはね皆さん、今日の本題である「心と科学」にいよいよ入って来るのですけれども、皆さん、アインシュタインの「相対性原理(そうたいせいりろん)」というものを勉強されたかどうか知りませんが、それと非常に関係があるのです。物理学の法則ですね。アインシュタインという人は、質量とエネルギーが一緒のものであるということを証明した方なんです。質量というのが、質量といっても分かんないかもしれないけれども、まあ、かたまりですね。あるいは物質の存在といってもいい。そういうものが、エネルギーと一緒だということです。 目の前に話の材料として手頃の物がありませんけれども。そうだね、目の前に『高橋信次霊言集』という本がころがっていますから、これを手に取って説明しましょう。二百六十ページぐらいの本です。こういうものが目の前に物質としてあります。これが質量ですね。 ところがこの本は、こういうふうに固型化したものかというと、そうじゃないんです。実際は、これはあるエネルギーが静止した状態なのですね。この本の中には、二百何十ページの活字を印刷した紙があります。この紙って何かというとね、紙っていうのはもともとは木です。木材ですね。木材をチップにして、そしてつくったのが紙です。 そうすると木材のもとは何でしょうかね。南洋材か北洋材か、これ知りませんけれども、この本が南洋材でできているか、北洋材でできているか、私はチョット霊視能力がそこまでなくて、わかんないんですけれども、多分楠(くすのき)か何かかね。あまりいい木じゃないでしょう。檜(ひのき)は使っていないでしょう。まあどっかの楠を使ってね、つくっておるんでしょうけれども。そういう木からできています。 じゃあ、木っていうのは何かっていうと、もともと種があって、大地に落ちて、それが大きくなってきて太陽の光、水、それから栄養素、こういうものを吸収して、木になっていきますね。 そうすると、木が木として成長するためには何がいるかっていうと、水と、それにリン酸とかカルシウムとかカリウム、ナトリウムいろいろなものが必要なんです。そういう栄養素が入っています。それと光です。太陽の光が大事です。 光によって木は葉っぱで光合成をして、そして炭水化物っていうのをつくっていくのですね。光合成、炭酸同化(たんさんどうか)ともいいますけれども、炭酸というものをまずつくっていきます。空気中の「C02」二酸化炭素みたいなのを吸って、それを炭水化物に変えていきます。これが栄養になるのです。木がこれを栄養として、大きくなってゆくのです。 そうすると、この本の紙っていうのは何かというと、空中にあった炭酸あるいは酸素、あるいは光のエネルギー、水、つまり、こういうエネルギーだったんですね、もともとは。光のエネルギーとか、そういう化学変化のエネルギーが静止した状態が木になって、木を変化させたものが紙になって、紙から、こういう霊言集の本ができているのです。 そうすると、こういう質量、あるいは物質と言ってもいい、物体と言ってもいい、物体というのは、もともとエネルギーなのです。エネルギーが、その形が変わって、固定化したものが質量なのです。 ところがこの本にマッチかライターで火をつけると、どうなるかというと、これは、ものすごい勢いでよく燃えます。パチパチパチパチ燃えますね。もう元気いっぱいです。九次元の光を発してもうパチパチパチと燃えまくります。あっという間ですね。おそらく二、三分あったら燃え尽きちゃうでしょう。短い生命です。私の四十八年の生命も短かったけれど、それよりもっと短い生命で燃え尽きちゃいます。 そうすると、この質量であったものが、今度火をつけると次にはエネルギーに変っちゃうんです。『高橋信次霊言集』で風呂をわかすことはできませんけれども、お風呂のたきつけぐらいにはできるのです。紙を引きやぶって火をつけて、たきつけにできるんです。そして薪(まき)に火をつけてお風呂がたけるのです。そうすると、質量であったものが、今度はエネルギーになります。 こういうふうに、アインシュタインが、この理論を言ったんですね。質量とエネルギーとは一緒のものであって、ある時はエネルギーになる。運動しているとエネルギーです。運動を止めると質量になる。こういうことを言いましたが、同じなんですね。 14.人体創造の原理 だから、さきほど人類の創造ということを言いましたけれども、もともとエネルギーであったものを、静止すると質量があらわれるんです。同じように四次元以降の多次元世界の中にあるエネルギー、つまり、神の生命エネルギーというものを一点に凝縮すると、何かできてくるかって言うと、まず霊的な核、霊子ができます。この霊子に光エネルギーが帯電して光の粒、光子(こうし)ができてくるのですね。光の粒ができるんです。エネルギーを凝縮すると、光の粒ができる。こういう光の粒を集めていくと、一つの大きな元素、陽子というものができます。 陽子がいっぱい集まってくると、だんだん原子になり、分子になり、そういう大きな粒子になってくるんです。ですからもともと、そういうエネルギーが凝縮すると、しだいに分子ができてくるのです。そして分子ができてくると、それで物質ができるんです。 肉体とか、八百屋で売っている野菜とか、肉屋で売っている肉とか、こんなものがみんなできちゃうのです。分子です。分子でできています。 したがって、分子ができるということは、八百屋の大根もつくることができれば、肉屋の肉をつくることもできるのです。ですから肉屋の肉までできたら、もうちょっとなんですね。肉屋の肉ができたら、次は豚か牛みたいな形にすればいいんです。次はね、そこまでもってくるんです。これはちょっと力がいるんですけれども、豚か牛までつくっちゃう。豚や牛ができ始めたら、よし次、一発、人間いくかというんで、人間というものも、そういうふうに理念型、理想の形があって、それに合わした、そういう光の粒子を集めていって、エネルギーを物質化していくと、できてくるんですね。そういうふうに地球に合った人体というのが、やがてできてきました。 もともとは円盤で来た人たちなんですけれど、やはりもといた星と、地球の星の条件が少し違うので、だんだん、そうした肉体の創造というのが行われたのです。そして、そういう人たちがまざりあって、次第に、現在の皆さんのような、地球に非常にふさわしい人体ができてきたんですね。 地球の重力に合わすには、一メートル六十センチぐらいの身長がいちばん合うのです。私は一メートル六十三ぐらいありましたかね。地球の重力に非常に適した、まあ理想的な体だったわけです。体重は七十五キロから、病気で死ぬ前は五十何キロか知らないけれども、上がったり、下がったりしましたけれども、まあ非常に理想的な、人類として最高に進化した形が高橋信次だったわけですね。そういう人体まで、三億年のあとには進化したわけです。そういうことで、本来は神の世界の中の光エネルギーが、そういう物質の創造ということをすることができました。 15.質量になっていない生命エネルギーが魂の実体 そうするとね、皆さん考えてほしいんです。じゃあ生命って一体何なのかと。あなた方の体に宿っている生命って何だろうか。生命っていうのは、結局エネルギー体に他ならないのです。神のエネルギーなのです。これが、いわゆる物質じゃない部分、物質化してないでエネルギー体として残っているのが生命なのです。つまり肉体というのがある程度物質化してこういう形が出て、その形のできぐあいによって美人だとか、ブスだとかね、二枚目だとか、醜男(ぶおとこ)だとかできるんですけれども、そういう物質とは別にその中に宿っているエネルギー体があります。これが生命エネルギーです。これのことを魂って言うんです。 これは、だから、そうしたもともとのエネルギー体で、さきほど言った質量の法則からいくと、まだ質量になっていないエネルギーなんですね。これが宿っておるのです。これがエネルギー体のままだから、肉体がほろびた時に、四次元以降の本来の世界に還っていくんです。これが魂ですね。こういうエネルギー体があるのです。 16.生命エネルギーのコントロールタワーとしての心 したがって、心っていうのは、魂の中心部分なんです。魂の知性がある部分、あるいは中枢(ちゅうすう)部分と言ってもいい。これが心なんですけれども、心の正体って何かというと、エネルギー体の、要するに核の部分です。台風の目の部分が心なんですね。台風って渦巻きでしょう。一つのエネルギーですね。あれの目の部分が心なんです。 あるいは卵でいうと、卵の黄味(きみ)の中に目がありますけれども、ああいう部分が心なんですね。そうすると、心っていうのはエネルギーの中心部分で、生命エネルギーのコントロールタワーなのです。これが心です。 したがって皆さん、心、心と言って、何だか分からない抽象的な、心の勉強をしていますけれども、心っていうものの本質は何かっていうと、そうした科学エネルギーであり、大宇宙に遍満(へんまん)している力なんです。だから人間の心っていうのが、実際は神と同通しているとは、このことを言うのです。エネルギー体だからです。そのエネルギー体がどこから来ているかっていうと、大宇宙の根源の神から来ているエネルギー体なのですね。だから、人間は神の子であるというのは、その意味でもあります。分かりますでしょうかね。そういうことなんですよ。 したがって、この三次元世界を見わたしてみると、そういうふうに、まだ神のエネルギー体のままで、いろいろな物質、人間とか植物、動物に宿っているものもあれば、それがもっと固定化し、物質化し、質量化してね、物質となっていくものもあれば、物質にならずに物質を支配して残っている力というものもある。こういう共存した世界なのです。 ですから三次元っていうのは、四次元の中にふくまれています。つまり四次元の世界というのは、そういうエネルギーの渦巻く世界なのです。そのエネルギーの渦巻く中に三次元の物質世界というのがあるんですね。 17.色心不二(しきしんふじ)・色即是空(しきそくぜくう)・空即是色(くうそくぜしき)の本当の意味 したがって「色心不二」っていう言葉がありますけれども、「色心」というのは色と心ですね。「不二」つまり、二つでないと。不二一体であるという言葉がありますけれども、本当はね、「色(しき)」っていうのは、般若心経(はんにゃしんぎょう)にありますけれども、この世に現れている姿です。物事の姿、この世に現れている物事の姿っていうのは心、すなわち大宇宙生命体のエネルギーと不二一体(ふじいったい)、要するに不即不離(ふそくふり)の関係にある。別のものじゃあないんです。一緒なんですよ。色心不二というのはこういうことなんです。 お経で言っている言葉っていうのは本当は、心と科学のことを言っているんです。色心が不二であり、色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)って言いますね。私も『原説・般若心経』の中で言ってますけれども、色即是空、つまり「色」、この世に現れている現象っていうのは、「是空(ぜくう)」、もともと空(くう)である。「空」っていうのは何かというと、空っぽじゃないんです。空っぽじゃなくて、目に見えない大宇宙の生命エネルギー体からでき上がっているんですよ、この地上のものはすべて。これが色即是空です。 空即是色、これも一緒です。そうしたエネルギー体が物質になり、物質がエネルギーになってくるんです。循環しておるんです。だからエネルギー体がかたまって木になり、それがチップスになり、『高橋信次霊言集』の本になり、それに火をつけると、また燃えてエネルギーになります。こういうふうに循環するのです。色即是空です。 あるいは永遠の人間の魂が転生輪廻していることと一緒のことです。人間として高橋信次として、肉体を持っている時は、これは「色(しき)」です。そういう色別できますね。「色」というだけあって「色恋(いろこい)」ができるのですね。色恋だってできるのです。これが「色」です。 ところが高橋信次が焼かれちゃって、灰になっちゃうと、色恋ができないんです。それで「空(くう)」になります。「空」になって、「空」は空(から)っぽかというと、そうじゃないんです。「空」というのは大川隆法さんのところへ来てマイクをにぎれば、こういうふうにしゃべれるのです。すなわち空即是色(くうそくぜしき)なのですね。こうしてまた色、色がだせるんですね。 だから大川隆法さんの力を借りれば、私は恋の一つや二つはできるのです。ね、こういうふうに皆さん、色即是空(しきそくぜくう)の本当の意味が分かりましたか。色心不二(しきしんふじ)という意味が分かりましたか。これが今日の主題である「心と科学」ということなのです。まあ今日は、これで話をおいときます。
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目次 1.不幸な人生観に満足せず、永遠の生命をつかめ 2.人生をこの世限りとみるなら、無常の風が吹きすさぶ 3.あの世は「現にあるからある」と言っているのだ 4.旅の途中でみずからが旅人であることを忘れ去った人間 5.師を失うとすぐ山を下りはじめたかつての弟子たち 6.真実の道は険しい 7.ジイドの『狭き門』のアリサとジェローム 8.天国の門は二人ではいるには狭すぎるのか 9.招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない 10.執着というこの世的なお荷物を持っている人は、生命(いのち)に至る「狭き門」をくぐれない 11.ヤシの実のワナにつかまった猿のたとえ 12.力を尽くして永遠の生命の世界へはいれ 1.不幸な人生観に満足せず、永遠の生命をつかめ 第一章「新創世記」、第二章「甦る仏教」、とこうきまして、第三章で「永遠の生命」ということに関して今日はお話を続けていきたいと思います。 永遠の生命というのは、これは宗教をやる人にとって本当いちばん根本的なテーマなんですね。 この永遠の生命をつかむかつかまないかということがね、宗教家としての自覚の強さ、あるいは弱さにも関係するのです。 まあ生きている人たち地上にいる人たちはね、私たちの目から見てみると非常に不幸な人生観でもって生きておるわけなんですね。 みなさんどうしてね、そう自分を不幸にするような人生観を持ちたがるのでしょうね。私はそれが不思議でしょうがないんです。 どうして自分の人生は一回きりで、六十年、七十年で終わってしまうと思っちゃうんでしょうかね。 まあ六十年、七十年あればいいけれども、高橋信次なんかは四十八年で終わりました。 四十八年で本当に線香花火のように、パーツと燃えて尽きてしまうだけで、人生が終わってしまうなら、なんのために高橋信次があれだけ努力したか、この意味がないですね。 私は『心の発見』三部作、現証篇、科学篇、神理篇、この三つを書きました。もともと『縁生の舟』という題で出した本ですけれどもね、それから『心の原点』『原説・般若心経』『愛は憎しみを越えて』『人間・釈迦』四部作、『心の指針』『心の対話』まあこういう本をいっぱい書きましたね。 あれだけ私が夜も寝ないで原稿用紙を埋めるために一生懸命万年筆を走らせて書いて、そして全国津々浦々の人々の前で、汗を流して講習してそして現象をして見せて、講演会で入場料を一円も取らずに、あれだけやってきて、やがて四十八歳でバッタリいってね、それで高橋信次という個性があっさりと消えてしまうなら、私はなんのためにいったいやってきたのか。その意味がないじゃないですか。 みなさんそういう人生観で満足できますか。私は、高橋信次という人間はね、有限で、四十八年生きて、それで終わったら、もう焼場で焼かれてそれで人間灰になって終わってしまって、それで満足かというと、それで満足じゃないんですよ、満足じゃないからこうやってでてきて、こうやってしゃべっておるんです。 2.人生をこの世限りとみるなら、無常の風が吹きすさぶ みなさんそんなつまらない人生観をどうして信じるのですか。 だれに教わったのですか。学校の先生ですか。友だちですか。ご両親ですか。 人生がわずか数十年で、本当に終わってしまうものなら、なんのためにみなさん小学校に上がって、一生懸命勉強していい中学校行って、一生懸命勉強していい高校入って、また勉強に勉強を重ねて、四当五落とかいって、四時間睡眠なら合格、五時間なら落第というような厳しい受験勉強の間、一年も二年もやって、そしていい大学に入って、そしてまた企業に就職して、そして定年がきて、会社クビになって、あと子供たちに馬鹿にされながら、余生を送ってね。そのうちポンコツの人となって、恍惚(こうこつ)の人になってホイホイになっちやって死んじゃうと。これで土になっちゃってもう終わりなんだと。 肉体が滅びたときにすなわちその人の人生が終わるのだということであったら、何のために一生生きてきたのでしょうか。何十年も人生汗水たらして生きてきたんですか。何のためですか。 それはその日その日がひもじいからですか。 ひもじいから三度のご飯を食べないと、ようするに体がもたない。三度のご飯食べるためには、お金がなければいけない。お金を稼ぐためには働かなければいけない。働くためには就職しなければいけない。就職するためには学校出なければいけない。学校出るためには勉強しなければいけない。 それでみなさん小学校から、ズーッと勉強しているんでしょうね。ただ三食食べるということのためでしょうかね。どうでしょうか。 それとも、きれいな嫁さんもらうためでしょうかね。 そのきれいな嫁さんも、やがて年とって三十になったら目尻にいっぱいしわが増えて、エドガー・ケイシーの霊言でしわのとりかた聞いたって、エドガー・ケイシーだって困っちゃうんですよ。 三十になれば烏(からす)の足跡でね。目尻にしわがよるんですよ。これは自然の摂理なんでエドガー・ケイシーがいくらがんばったってこれは治りゃしないのです。ほんとう言うとね。こんなもの。 四十になればあなたね、もうおばさんですよ。どうがんばったって、どんな映画女優だって、いいかっこしたって、お化粧とったらもうおばさんなんですよ。無理なんです。 五十過ぎたらもう白髪が出るんです、どんなにしたって。 六十過ぎたら腰曲がってたまるものかなんてね、ヨガの体操一生懸命やったって曲がるものは曲がってくるんです。どうしようもないんです。 女性だって頭のはげるんだっておるんです。毛が抜けてくるのがね。みなさんもそういうふうに生物学的にごく自然になる。まあ生物学的にそうなるんですよ。 七十過ぎて赤ちゃんみたいになるような人はおらんのです。あんなポチャポチャしないでみんなしわくちゃになっていくのです。これは逃れられないのです。 これでもって本当に「是(よ)し」と思いますか、ということですね。 あなた方はそんな不幸な人生観を受け入れて、それで本当に満足しているんですか、ということです。 本当に七十歳で自分が死んで、そしてあとは灰になって焼かれてね、灰になって空中に二酸化炭素で散らばってしまって、それで本当にあなたは満足ですかと。そんな人生って本当に正しいと思いますか。 何のために努力したんですか。何のために教えてきたんですか。こういうことをもう一度ね、よくよく考えてほしいんです。決して自分が本当に幸せになるような人生観を持ってないはずなのですね。 3.あの世は「現にあるからある」と言っているのだ どうせそれこそ七十年で死ぬならね、あなた、もう生きている間もう好き勝手しないと損ですよ。 毎日、毎日、ドンチャン騒ぎしてね、ハイ、焼かれるってことになって焼き場に行って「ああ焼かれた。ああこれですっきりした。もうさっぱり私はこれでなくなった。」ってね。 生命がなくなったと思ったらね、「あらっ」と思ったら焼き場の屋根の上あたりをフラフラ飛んでいて、「あら、どうしたんだ。俺死んだと思ったらまだ生きてるなんておかしいなあ。」と思ってそのあと迷って子孫のところへ出てきて、幽霊がでたって恐がられるのがオチなんですよ。 こんなもんなんです。そんな淋しい人生観を持っている人というのは。 ところが、なぜかこれをみんな信じている。学校の先生や、インテリたちは、みんなこれが当然だと思っている。 文部省だってそうですね。霊とか魂ってのはもう古代の信仰になっちゃってね、現代はダーウィンの進化論以来そんな馬鹿な話する人いなくなった、なんて言っています。平気で言っています。 そんなまちがいを堂々とね、国の機関が教えて本当いいんでしょうかね。 事実はひとつなんです。ふたつないんです。片方が正しければ、片方が間違っておるんです。もうはっきりしているんです。 あの世の霊がこうやって話している以上、あの世があるんです。霊があるんです。人間は永遠の生命を生きておるんです。もうこれははっきりしておるんです。これはもう解釈の分かれようがないんです。思想上の問題じゃないんです。 「ある、ない」というのは、思想として認められる認められないの論争の問題じゃないんです。「現にあるからある」と言っておるんです。どうしようもないんです。 あるもんはあるんですから。そういうふうにできておるんです。それを認めないで嘲笑(あざわら)う、これが大多数の人々です。 おかしいと思いませんか。地上の大部分の人たちがそういうふうな病気にかかっておるわけです。みんな、頭がおかしくなっているのですね。いねば記憶喪失になっておるわけです。 4.旅の途中でみずからが旅人であることを忘れ去った人間 たとえて言うとね、人間というのはみんな旅をしておるのですね。いろんなところを旅して、旅から旅へとね、股旅(またたび)のなんとかでね。清水の次郎長さんじゃありませんけれども、旅をやっとるわけです。これがおもしろいんですね。 ある山あいの村にはいると、何かそこが非常に居心地(いごこち)がよくてね、食物が豊富でね。お金がザクザクでね。娘はきれい。そういう村にはいってドンチャン騒ぎしているうちにね、みなさん旅していたことを忘れちゃうんですね。 そしてそこにいるときれいさっぱり記憶を忘れちゃって、もうこんないいとこないっていうんで、もう昔からそこにいるような気になって、ここ以外に世界がないぐらいの気持ちでおるのです。 本当は旅してきたんですよ、いろんなところをね。それで途中の宿場町に泊まっておるだけなのだけれども、あんまりその宿場町がキラキラ、キラキラ、ネオンがキララするもんだから、居心地がよくて旅人であることを忘れてしまったんです。自分はね。 いつしか通行手形も忘れちゃって、いい気になっとるんです。 で、その村では独自に自治をやっとるわけですね。そうすると村長さんがいてね、「村の者よ、よく聞け。」と。 「この村は全世界の中心であり、この山の向こうはもう崖になっとって宇宙の果てだ。」とね。 「ここ以外世界はないんだ。」とね。 「これがすべての地上である。すべての国だ。みなさんはこのようなすばらしい国にいることを誇りと思わねばいかん。この国から一歩でも出たらいかん。この村から一歩も出ちゃあいかん。それはもう地の果てであり、この世の終わりなんだ。この村だけが完結したすばらしい世界なんだ。このなかでみなさん精一杯いい人生を生きましょう。」こういってやっとるわけですね。 そしてその村の教育委員がでて来てね。「ああ、その通りです。みなさん、霊魂なんてありゃしないんです。人間というのは一回限りで、この村でドンチャンやって死ねばそれで終わりなんだから、もうできるだけね、ここは温泉町でもあるし、芸者をあげて朝から晩まで酒を飲みましょう。」と。「これが一番いいんですよ。」とね。 「学校の先生に給料払うためにだけ、子供を学校に通わしましょう。」ってね。 「どうせ死んだらもう終わりなんだからね、まあ生きている間、ほっとくともう暴走族か、なんかやって悪いことをするから、とにかく受験勉強さしてね、縛りつけとくと悪いことはせんだろう。」と、まあそういう話をしとるわけです。 こんな狭い世界観で、こんな有限の人生観で、満足しておるのですよ。 あわれというしかありません。あわれです。 そして現代のインテリと言われる人たちはほとんど、これを信じておるんです。 この迷妄(めいもう)を醒(さ)ますためにいろんな光の指導霊たちが出て、いろんな人にいろんな教えをしとるのだけど、どうしてもそれをすぐ忘れちゃうんですね。信じられない。 5.師を失うとすぐ山を下りはじめたかつての弟子たち 高橋信次は、昭和五十一年六月、東北講演から帰ってきて、力尽きて二週間ぐらいしてポックリいきました。 そうすると、私がポックリいくと、それまで教えを受けてた人たちはどうなんでしょうかね。 私が講演会で永遠の生命の話をして、そして人間には転生があるんだ、過去世があるんだと。過去世があって過去幾転生してきて、それで現在があるという以上、未来世があるんだということを力をこめて私は何十回、何百回と話をして、そして現象をして見せてきました。 そして聴衆はみんな信じてたかのように見えて、先生がポックリいったらもうそれでまた信じられなくなる。こんな人たちなんですね。 目に見せるときには、現象を目に見せるときには信じるけれども、すぐそれを忘れてしまう。これが人間の愚かさであります。 こういうことを気づかすためにね、過去イエスだとか、ブッダとか、モーゼとか、いろんな偉い人がいっぱい出てきて教えてきたんだけれども、その人たちが地上を去るとまた忘れちゃう。こういうふうになるんですね。 どうしても低きに流れていくんです。どうしてもエベレスト山みたいな高い所に登ることがいやだから、川の流れにのって低いほうへ低いほうヘタラタラ、タラタラ流れていくんですね。らくちんだからです。 エペレストの山に登るのはたいへんだから、高橋信次がでてきて「こら、みなのもの、荷物をひとつにまとめなさい。ピッケル持ったか。サンダルじゃだめだぞ。山登りだから山靴はけよ。山高帽もいるぞ。弁当つめたか。缶詰持っても缶切り忘れちゃいかんぞ。雪のなかで迷ったときにチョコレート食べとったら一週間ぐらい生きのびて助かった人がおるから、チョコレートのひとつやふたつはポケットにいれておけよ。」ってね。 「ロッテのチョコレートだけじゃなくて他にもチョコレートいいのあるぞ。」と。まあそういう話をしています。 そしてみんな私のあとに続いて山を登っとったんだけれども、高橋信次が四十八合目あたりで、ちょっと谷底へ落ちたら、コロッと落ちたらね、「あらもう先生いなくなった。」ってね。「先生いなくなったら山登りの本当の意味がないんじゃないか。」なんてね。 「やめた、やめた、やめた。」といってね。 みんなリュック捨てちゃってね、「やめた、やめた、やめた、この山登りなんて馬鹿馬鹿しい。」なんてね。 「登りはつらいけど、下りは楽だぜ。」って、みんな楽なかっこうしちやって、トントントントン山を下り始めました。 そうすると、「あいつも下るなら俺も下る。」なんてね。 「馬鹿馬鹿しい、頂上なんて誰も行ったことがないし、わかりゃしないんだよ。」って、「山に頂上があるとは聞いているけれど誰も行ったことがないし、頂上へ行ったってまた下らにゃいかんのだから、どうせ下るのなら登る必要がないや。」なんてね。そういうことで下り始めました。 そして仲間のなかの何人かがね、そういう楽なことをして山道下り始めると、登っていた人たちは、やっぱり気になってきますね。 山道登るのはつらいけど下るのは楽そうだし、下のほうに行ったらなにか楽しそうなところがいっぱいあるみたいだから。富士山のてっぺんてネオン街ないしね。温泉もないしね。芸者もいないし、刺身もなきゃ、なにもないと。鳥の唐揚げもありません。 これじゃやっぱりつまらんからね、ふもとにおりていきゃぁ、あなたお店もいっぱいあって、富士五湖のあたりなんかネオンキラキラして、もうほんとうに生命(いのち)の養生(ようじょう)ができます。だから先頭集団が下り始めると、みんなついて行きますね。これがかつての私の弟子たちです。 現在あわれにもね、先生がもう四十八合目でちょっと沢のほうに落ちたかと思ったら、もう山登りやめちゃって、みんな下り始めた。「こんな危険なことやめよう、やめよう。やめよう、危い。みんな下へ下ろう。これ以上登ると雷が落ちるかもわからんしね。雹(ひょう)が降ってくるかもわがらん。もう下ろう下ろう。」ってね。 指導者がいなくなるとイチコロです。それでみんな我先にと下り始めましたね。こんなもんなのですよ。 6.真実の道は険しい あれだけ私が山の上の大切さ、すばらしさ、その挑戦することのりっぱさを教えてもね、やっぱり低きに流れる。ま、これが人間の性(さが)なんです。 どうか私の言葉を聞いて感ずる人たち、多いはずです。よく考えてほしいですね。やさしいところばかりに本当の道はないんですよ。 真実の道っていうのはけっこう険(けわ)しいんです。険しくとも一歩、一歩登っていかなくてけならんのです。それが修行なのですよ。 イエス様も言ったはずですね。「滅びに至る門は広く、その道よりはいる者多し。されど生命に至る門は挟く、その門よりはいる者少なし」と言っていますね。 7.ジイドの『狭き門』のアリサとジェローム 読んだことありますか、有名なフランスの、あっフランスだったかドイツだったか忘れちゃったけど、どっちかだ。ジイドっていう、アンドレ・ジイドという作家がいて、『狭き門』というのを書いていますね。 『狭き門』のなかでジェロームという主人公がいて一生懸命、刻苦勉励(こっくべんれい)して、徳高い人聞になろうとしておるのですよ。 アリサという二つ年上のいとこがおって、これにジェロームが聖女にあこがれるようにあこがれておるわけですね。 「彼女はいま、私の愛を受け入れてくれない。私の愛を受け入れてくれないのはなぜかというと、彼女はやっぱり私の悟りが低いのを見抜いておるのだ。私は彼女にふさわしいものになるように自分の魂を高めたときにきっと彼女は受け入れてくれて結婚してくれるのではないか。」なんてジェロームが美しい誤解をします。 そうして一生懸命アリサにね、手紙を送ったり自分が最近勉強したことや最近読んだ本のことを一生懸命書いて送りますね。 こんな本読んだ、あんな本読んだと一生懸命送ります。そして感想を書きます。 そしたらアリサはアリサで、背伸びし始めまして、ジェロームがそんな難しい本を一生懸命学校で学んどるなら、私も読まにゃちょっと話ができんから、恋人同士の話ができんので、町の本屋で買いあさって、ちょっと本がないみたいだってちょっと注文したりしますね。 まあ昔、高橋信次の霊言シリーズが出てすぐに版元品切れで、印刷するのに二週間かかって、読者が怒ったりしたことが一部あったようですが、そういうふうにあんまり評判のよい本というのはすぐなくなりますから、アリサが買おうとしても注文しなければいけない。 注文しても印刷屋は輪転機を回すのに時間がかかって製本しなければいかんので、「しばらくお待ちください。」で二週間待っているうちにジェロームからまた次の手紙がきます。 今度はこんなに難しい本を読んだ、そして哲学的発見をした、なんてきますね。アリサは困ります。「しまった。前の注文の本がまだ来ていないのに次の本を読まれた。こりゃいかん。」また探しに行かねばならないとね。 そうしてどうも手紙を読んでいるうちにジェロームという人は、自分をどうやら理想化して、聖母マリアか、あるいはもっと、もっとりっぱな女性だと思い始めているんだと。 ジェロームと会うとこの幻想を打ち砕いてしまうんじゃないかと。女性というのは自分に自信がなくなります。 そしてジェロームがアリサに「会いたい、会いたい。」というと、向こうは「いやいまちょっと困ります。もう少しあなたの勉強が終わるまで私は待っています。」なんていって、いったん体(てい)よく逃げます。 そうすると馬鹿なジェロームはますます頭に血がのぼってきて、「そんなこと言わないでアリサちゃん、会ってください。僕はあなたにふさわしい魂になるためにこれだけ努力したのですから、この僕をどうか受け入れてほしい。」ってね、一生懸命書きます。 そしてもう思い余ったジェロームちゃんは、もう求婚をどんどんしますね。「結婚して、結婚して。」アリサは困ります。 「もうちょっと待ってください。もうちょっとあなたが一人前になられて、働き始められて、りっぱになられたとき、私もあなたにふさわしい妻になれるように修行します。」どうのこうのといいます。 8.天国の門は二人ではいるには狭すぎるのか ジェロームはまだ許されない、それではしかたがない、もっともっと僕は人生修行をしなければいけないと一生懸命やります。 ところが実在の世界から愛のキューピットが見ておると、ジェロームがあまり一生懸命やるのでね、アリサはついていけなくなってね、で自分と会うとね、女性はよくあるんだけれどもね、馬鹿だと思われるのが女性は一番辛いのです。うなずいている人がどっかにいるけれども、それが一番辛いのですよ。女性というのは心のなかで、やっぱり理想的な男性ね、なんというんですか、白馬の騎士が現われて自分を救ってくださる、こういうことを願っておるのだけれども、じっさいに白馬の騎士がきたときにあまりりっぱすぎて、クラクラきちゃうとこわくなってやっぱり逃げちゃうんですね。 やっぱり茂みに隠れちゃうんです。これが女性なんですね。あこがれる気持ちと不安感とのこの両方を持っている生物なのです。女性というのはね。 だからジェロームちゃんがあんまり勉強しすぎて、「いやカントの『純粋理性批判』によれば、かくかくしかじかであって、いやヘーゲルはかく語りき。そしてヘーゲルを乗り越えた高橋信次はかく語りき。」なんてやっていると、もう彼女のほうはついていけなくなるのです。 で、男性のほうがいっくら高橋信次の本がりっぱで難しい、すばらしいと言ったって女性が読んだらチンプンカンプンですね。 GLAでもインテリ向きには『心の原点』を薦めたりするようですけれども、近所の主婦に『心の原点』あげたって読んだって全然分らない。 「なにいっているかわからない。空理空論をぶちまけて高橋信次ってなにいっているの。こんなのわかるわけないでしょ。あの世のしくみとかね、なんだかんだといったり四次元だの何次元だのといったり、酸素が『C02』になってどうのこうのなんて生命科学のことをいったって、さっぱりわからない。」こういうことで世の女性はついてゆけんわけです。 そういうことで、まあジェロームが一生懸余徳の修行をしていくんだけど、アリサがそれについていけない。そうこうするうちに、ますますジェロームががんばっちゃってね、一生懸命修行するわけです。そしていつしかアリサが年老いていくわけですね。 再度ジェロームが結婚申し込んできたときにアリサは「もう私は年をとり過ぎました。」ってね。 「妻となるには年をとり過ぎました。女性とはいえないような体になってしまいました。いまさらあなたに抱かれてもあなたをガッカリさせます。」 女性というのは男性をガッカリさせるのが一番辛いのです。 結局、若いときには容(い)れられず、年をとって自分に勉強ができた、修行ができたと思えば、こんどは女性のほうがもう、年とっちゃってばあちゃんになっちゃったから恥ずかしくて「いまさらあなたの花嫁なんかなれません。」てね。 「いまさら教会でウェディングなどやれません。」で、結局はダメです。そしてアリサは淋しく死んでいきます。 そして死後、ジェロームはアリサの日記というものを読まされます。そうすると本当はね、アリサっていうのはジェロームに力強く奪いとって欲しかったんですね。 「いやよ、いやよ、は好きのうち。」女性の「いやよ」は好きのうちです。「いやよ、いやよ」二回言ったぐらいで男は逃げちゃいけないのです。 「いやよ、いやよ」十回ぐらい言うまでがんばってね、男性が強引に腕力でもって結婚せねばいかんのです。 だからほんとうはアリサというのは、ジェロームが無理やり押しいってくるのを待っとったんですね。紫式部の世界ですね。もう夜な夜な押しいってくるのを待っとったわけです。 それをジェロームが遠慮して垣根の向こうからのぞいたりしているものだから、いつまでたってもダメなのです。 アリサとしちゃあ、「二つ年上で、私はいとこだし。ジェロームにはもっと素敵な人がいるんじゃないかしら。」と。 「どうやら私の年下の妹なんかが」ね、まあ妹は年下ときまっていますけれども、「ジェロームを好きみたいだし、妹と一緒になり、結婚してくれればいいのに。」と思ってみたり、いろんなことを考えます。そういう葛藤があります。 まあこういうふうなことでジイドが『狭き門』という本のなかで非常に理想化しちゃってね、天国にはいる門というのは非常に挟くて、ふたりが手をつないで通るまではいかないのだと。 それだけの広さがない。ひとりが通れるのがやっとでふたりは通れないと。ふたりで手をつないで通ろうとすると、とうとう通れないと。こういうことを一生懸命いってますね。 まあこれは恋愛の大家から見りゃあね、こんなのはジェロームというのは馬鹿の典型であって、こんなのあなた女心知らんのですよね。 もう両親が留守しているときに無理やり二階に押し上って、結婚をせまればいいわけですよ。 それにもかかわらずね、そんなことを言って「徳を磨いて」なんていっているから実際は結婚できなかったんです。ジェロームは馬鹿な男の典型なんですね。 だけど、まあジイドってかたは知ってか知らずか、まあそういうことを理想的な純愛物語に仕立てあげて、天国の世界にはいるというのはね、これほど難しいのだと。ふたりでは手をつないではいれない。ひとりでしかはいれないんだと、こういうふうに書いてあります。 それを狭き門といってね、聖書のなかからとっているわけです、言葉を。 9.招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない 「滅びに至る門は広く、その道よりはいる者多し。されど、生命に至る門は狭く、その門よりはいる者少なし」といってね、ジェロームはひとりで門をくぐったつもりでおるんでしょうけれども。 けれどもね、この物語は、いま、冗談半分に言ったけれども、まあある意味では、普遍の世界の話を書いておるのですね。 ジイドという人がどうもね、ホモっ気があって最後は、どうも女性のほうではなく男性のほうを好きになったんじゃないかという説もあったりしてね。男性として不十分だったんじゃないかというような学者もおるようですけれども、そういうことはどうでもいいのであって、この物語のなかにいわゆる、「生命に至る門が挟い」という話があります。このことはある意味では当たっているのですね。 イエス様も宴(うたげ)にね、「神様の宴会に招かれる者は多いけれども、選ばれる者は少なし」と、いうようなことをいっています。事実ですね。 だから招かれる者、つまり高橋信次のたとえばこういう霊言集、霊示集が出てね、新聞に広告してます。本屋に積み上がっています。これは千円札一枚出しゃね、買えるんです。だから招かれているんです、みなさん。 千円札一枚ポケットから出して買えば、あなた永遠の神理がわかるのです。招かれとるんですけれども、選ばれる人は少なしでね、高橋信次の本を手に取って読む人は少ないのです。 こういうことでね、千円札一枚をなんに使うかというとね、まあろくなことに使いやしないのです。ちょっとパチンコやりゃあ、あなた千円札一枚なんか三分です。ものの三分で自動式パチンコなら消えちゃいますね。 喫茶店にはいったら、もうちょっと軽食たべてコーヒー飲んだら千円です。彼女とデート千円でできません。千円でデートしようとしたら、どっかのホテルのロビーで待ち合わせしてね、喫茶店で、コーヒー一杯飲んで帰るしかありません。これ以外できないです。映画見るには千五百円いるのです、最低。 こういう世界で招かれる人は多いけど、選ばれる人は少ないのです。こういうことでね、水遠の生命ということは、事実としてこの人間に本当は与えられておるのですね。 本当に永遠の生命を生きておるのだけれども、生きておるにもかかわらず、忘れておるのですね。すなわちこのことが、さっきいう「狭き門」の話なのですね。 10.執着というこの世的なお荷物を持っている人は、生命(いのち)に至る「狭き門」をくぐれない 本当はみんな、生命に至る門をくぐることができるんだけれど、この世的な荷物をいっぱいつくっちゃって、くぐれないのですね。「狭き門」のたとえってここからきているのです。 イエス様のいう金持ちが天国にはいれないって話といっしょでね。金持ちがはいれんわけではないんですよ。高橋信次が金儲けしたからといって天国にちゃんと来ていますから。 そうじゃないんですけれども、ようするにね、金持ちってなにかというと、象徴的にいえばリヤカーいっぱいにこの世的な荷物を積んでる人です。 どっか巨人軍の選手が十億円の豪邸を買ったり、あるいは貯金通帳がいっぱいあったりね。株券、有価証券、いっぱい持ってたり、山七つも持っていたりね、あるいは妾(めかけ)さんを五人も持ってたり、子供が十人いたりね。まあいろいろありますわね。 会社を五つも六つも持っておるとか。この世的にいっぱい持っておると。それをリヤカーに積んでくぐろうとすると、もう門が狭くてね、ひっかかって通らないのですよ。 ところがね、かわいそうな人間というのは、どうしてもその荷物を捨てることができないのです。荷物を捨てれば、体ひとつなら通れるのだけれども、荷物を捨てることができない。 それでしょうがないからまたリヤカー引いてね、大八車引いてあなたスゴスゴと坂をくだっていくんですよ。これがたいていの人間なんです。 このお荷物というのは実は執着なんですね。執着さえ断てば人間は生命に至る門をくぐれるのです。ところがそのお荷物、執着を断てないがためにくぐれないのですね。本当は簡単なんです。ところがそれができんのです。 11.ヤシの実のワナにつかまった猿のたとえ 昔こういうテレビ放送があったようですね。猿をつかまえるとする。南の国で猿をつかまえる方法というのがあってね。簡単なんだってね、猿つかまえるのは。 猿はかしこいらしいけど、猿知恵っていってね。ヤシの木かなんかにヒモをゆわえてくくっておいてね、その先に、ヒモの先にヤシの実、空っぽのヤシの実くくっておくんだって。そしてそのヤシの実をくり抜いて、手がはいるぐらいの穴をあけておくんだって。 このなかにね、お米だとかいれておくと、そうすると猿はその穴のなかに手をつっこむんだな。つっこむんだけれども、そのお米をしっかりにぎっちやってね、離さんわけだ。 そして人間がそれをつかまえにいくとどうするかっちゆうと、にぎったままでね、「キィー、キィー、キィ、キィ」言ってね、あばれまくっておるわけですよ。 離せば逃げられるんですよ。手を離せばはいったのだから抜けるんだけど、なかでにぎりこぶし作ってるんですね、ヤシの実のなかで。それであなたね、鎖につながれたとおもってね、ヒイヒイ言ってね、怒ってね、かけ回ったりして結局つかまっちゃうのですね。馬鹿なんですよ。 だけどこれが猿だからみなさん笑ってるだけでね、人間も一緒なんですよ。結局これなんです。 ヤシの実のなかにつっこんじゃって、なかの金銀財宝をにぎっちゃってるのです。で、手を離せば生命は救われるのだけれども、ダイヤモンドがあると思って、指輪があると思ってつかんどるもんだから、手が抜けないでつかまっちゃうんですね。まあ同じたとえです。こういうもんです。 12.力を尽くして永遠の生命の世界へはいれ ですから、みなさんね、逆に永遠の生命というのを得るためには、この世的なものを捨てなければいかんのですよ。 温泉で芸者をあげることはほどほどにして、自分は永遠の旅人であるということを思い出さにゃいかんのです。 温泉で芸者あげてね、もう、旅を満喫(まんきつ)しておると、自分が永遠の旅人であることを忘れてしまうんです。そういうことなんです。 あわれなヤシの実でつかまっちゃった猿のことを思い出しなさい。自分もそうじゃないかということをね。 この世的なものをつかんで、一番大事なものを捨てているんじゃないか。永遠の生命を捨てているのじゃないか。これをどうか忘れないで思い出してほしいんですね。 まあ今日は永遠の生命ということで、比喩(ひゆ)を使っていろんな話をしましたけれども、これが事実なんですよ。で一番大事なもんですよ。 みなさんね、馬鹿な猿みたいにならんで、この世的なものをつかむのやめてね、執着を断って、本当の神の生命、永遠の生命の世界へはいっていこうじゃありませんか。 この世的な執着を断ったからこそ高橋信次はいまあの世で成仏して、こうしてみなさんにメッセージ送れるのですよ。 私みたいにやっぱりあの世にきて霊言集ぐらい出しましょうよ、みなさん。どうですかね。 それが悟るっていうことじゃないですか。私はそう思いますよ。 ま、おもしろい話ばっかりしましたけれども、冗談はほどほどにしてね。ちゃんと悟ってくださいよ。これが私の願いです。
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目次 1.我が復活の意味 2.光は東方より 3.救世の原点 4.心の偉大性 5.釈迦仏教は死なず 6.永遠の光 (1988年6月2日の霊示) 1.我が復活の意味 高橋信次です。さあっ、土屋書店さんのこの高橋信次シリーズも、いよいよ六冊目となりました。前回の『新ユートピア論』以来、一か月半になりましょうか、私もうずうずしておりました。とうとう次の本ができることになって、こんな嬉しいことはありません。 さて、まあねえ、みなさんね、私の本ももう何冊か読んでこられたと思うけれども、ぼちぼち私も本気になってきました。いや、本気になってきたと言うよりも、本腰を入れる気になってきました。何冊か面白おかしく語ってきたわけだけども、ぼちぼち本領発揮、ということでね、高橋信次の真骨頂(しんこっちょう)を出していかねばいかん。そういう時期が来たのではないか。そういうふうに思っています。だからね、まあそろそろ私も腕まくりをし始めた。こういうふうに思っていただいて結構かと思います。 いつまでも手加減はしないよ。バンバン攻めていきます。それは、地上にいるみなさんがね、本当に目覚めてないからだ。いつまで経ってもわからない。霊の世界があるということがわからない。本当にあの世の世界があって、そうした実在世界があるということがわからないでいる。何らかの宗教心は持っているのだけども、本当の世界についてぼんやりしている。そうした人のためにね、わたしは一冊でも多くの手引書を世に送る、送りたい、送り続けたい。こういう熱意を持っています。どんなことがあっても、この自己実現だけは果たしていきたい。 なぜならば、私はこの世を救うという、地上の人びとを救うという、そうした大いなる使命を持っているからです。この使命を果たさないでは、「高橋信次」として生きた意味がないのです。 何冊か私の本を読んでおられる方は、すでに私が生前どんなことをしてきたか、そうしたことも知っているでしょう。また、生前書いた本、『心の発見』の三部作であるとか、『人間・釈迦』であるとか、そうしたいろんな書物を読んで、私の生前の思想を理解した人もいるでしょう。また、霊言シリーズも、これで合計、他の出版社も合わせれば、十冊目ぐらいになると思いますが、ぼちぼち私の考えがどの辺にあるか、その辺がわかってきたのではないか、そのように思います。 結局、「高橋信次」という人間が、今世紀に、地上に、日本にと言ってもいい、生まれたという理由は、「復活」にその意味があったのです。このように、復活して、霊言を送るということ、これが私の今世紀に肉体を持った意味であったのです。 生前、地上にて「GLA」の主宰者、会長として、何年か法を説きましたが、その仕事は、「高橋信次」の仕事としてはほんの一部、最初の部分にしか過ぎなかった。地ならしにしか過ぎなかった。一鍬(ひとくわ)にしか過ぎなかった。そういうことです。生前の「高橋信次」よりは、霊となって以降の「高橋信次」のほうがおそらく有名になってくるでしょう。そうした人がいたのかということが、あらためて気付かれるようになっていくでしょう。これも計画通りであるわけです。 私がこのようなかたちで、霊示集を送り続けているということは、これはまさしく現代の奇跡であろうと思います。この奇跡はふたつの意味から成り立っています。 ひとつは、本人の証明ということを通して、本当にあの世の世界があるんだということを、霊があるということを、これを示している、見せている。こういうことです。 もうひとつは、姿、形なき神が地上に語りかけているのではなくて、つい最近、十数年前に地上に生きていた人間が、そして人びとに法を説いていた人間が、そのまま天上界に還って、天上界の新鮮な気持と、新たな法のもとに、地上に教えを伝えていく、流していく、供給し続けていく、こうした方針をとっているわけです。 みなさんはぼんやりと読んでいるかも知れないけれども、これは大変なことが起きているのです。それは、イエス・キリストが、今から二千年前にイスラエルで復活した時以来の、あるいは、それ以上の事件となっているのです。 みなさんは、イエスが復活したという事実を知っているでしょう。クリスチャンたちの多くは、それが肉体的に復活したかのように、ぼんやりと考えているけれども、それは肉体としての復活ではありませんでした。霊としての復活でした。けれども、イエスは復活してから人びとの前に、弟子の前に現れてみせたけれども、その後昇天していって、二度と人びとの前に現れていません。もちろん、最近、霊示集というようなものを出したりはしているかも知れないけれども、それも二千年も経って、彼自身の評価が定まってからのことです。 「高橋信次」という人間は、まだ生前のその評価が十分に固まっておりませんし、死後十年過ぎても、まだその評価は固まっていません。ただ、私の教えをひとつの流れとして、さまざまな宗派ができているということに対して、現在の人びと、宗教に関心のある人びと、宗教研究家たちも目を見張ってはいるようですが、いかんせん、まだまだその動きは小さく、まだまだその値打ちとしては、小さなものとして見積もられているように思います。 しかしながら、私の「復活」という事件は、おそらく今世紀最大の事件になっていくのです。みなさんはそれだけの事件だと思って、私の書物を読んでいるでしょうか。本当に今世紀最大の事件として、予定されているのです。そしてこれが世に認められた時に、この二十世紀の末に起きた、この「復活」、この事件の結果、今後何千年もの後々までの人びとに、死後の世界があり、魂があり、霊があり、高級霊があり、神があるということを教え続け、伝え続けるという、そうした大いなる意味を持っているのです。 私はそれだけの意味を帯びて、使命を帯びて、現在仕事をしているということをみなさんは知っているでしょうか。わかっているでしょうか。どれだけの情熱と、熱意でもってメッセージを送り続けているか。これがわかるでしょうか。 私の熱意は、一人や二人の人間を救いたいということではない。徹底的に、残らずに、現代の人びとを救いたい。できれば後世の人びとまで全部救いたい。地獄なんかなくしてしまいたい。地獄霊なんかすべて救いたい。そうした意味です。それだけの願いを持って、情熱を持って、今世地上界に肉体を持ち、また天上界に還っても、今、霊言を送っているのです。 どうか、この私の「復活」の意味というものを、よくよく考えていただきたいと、このように思います。 2.光は東方より さて、現代という時代はさまざまな思想があふれ、また、世紀末であって、世紀末思想というものも流布(るふ)しているようです。そして、世界が暗くなるのではないのか。また、天変地異が続々と起きるのではないのか。大戦争が起きるのではないのか。そうした予言、あるいは予知、不安というものが人びとの心に広がっているように思います。 ここで私は、声を大にして言っておきたいことがあります。それは、「光は東方より」という言葉です。救世の光は、この東方の地から始まるのです。東方とはどこか。それは、この日本であります。 現代の日本に生きていて、この私の書物を手に取る人びとよ、私はみなさん方一人ひとりに言いたい。 みなさん方は今、大救世運動の現場に在(あ)るということを知らなくてはいけない。それだけの時代感覚を持っていなければならない。そうした時代の渦(うず)の最中(さなか)に自らがいるということを、知らなくてはならない。これを忘れた時に、大変な間違いが起きます。 何が大事だと言って、目の前で、これだけ大事な、何千年に一回の大事件が起きていて、これに気が付かないで、酔生夢死(すいせいむし)の人生を生きるということほど馬鹿なことはないのです。本当にこの大事業の意味を知った時に、みなさんはもう本当は、会社の仕事だとか、商売などやっておれないのです。それどころではないのです。 今から二千年前に、イエスがパレスチナ、イスラエルの方面に出て、法を説き始めた時に、湖の辺(ほとり)で網を打っていた漁師たちに、「我について来よ、網を捨ててついてきなさい。汝らは魚を捕るのはもうやめなさい。我に従い来て、人間を漁(すなど)れ。」こうしたことを言ったはずです。「魚を捕って商売をするのではない。そうではなくて、人を救う仕事をせよ。そのために我について来よ。家族だとか、親戚だとか、職業だとか、生活の不安だとか、そんなものに執(とら)われてはならん。人びとの心を救うという、この偉大な使命のために、我に尽くせよ。我と共に従い来よ。そして、偉大な救世運動を起こしていこうではないか。」そのようにイエスは威厳をもって言いました。 みなさん、しかし、現代という時代のこの危機的状況は、イエスの時代よりも遙かに深刻なのです。イエスのいたイスラエルの時代も、戦争といい、世の中の乱れといい、殺人や強盗や、そうしたものがいっぱいありました。けれども、その時代よりも、これから起きる時代の渦、この暗黒の時代の流れというものは、その数倍、数十倍、それだけの深刻さを帯びているのです。 そうした時代に、人びとの心に灯(ひ)をともし、そして世界を明るくしていこうという運動のために、馳(は)せ参(さん)じないということは、これは大変な間違いであります。本当にこの真実の法に触れ、真実の救世運動を知った時に、網を捨てて来なければいけない。すべてを投げ捨てて駆(か)けつけて来るぐらいの、それだけの勇気と、気力と、知恵がなくてはいけない。 みなさんはこの地上で、自分が生き易(やす)く生きようと思う、そんな心に執われてはならない。地上的なる執着に執われてはならない。我が身可愛さのためだけに生きてはいけない。そうではなくて、さて、どうやってこの運動のなかに身を投じていくか、これを考えていただきたい。 私がかつて指導した何十万人の人たちも、今、日本各地に散っておりますが、まだ、私のかつての羊たちは、羊飼いの声がわからないでいます。高橋信次がこうやって復活していても、その羊飼いの声を聞けないで、耳を傾けないで、集まってこない羊たちが数多くいます。そうした羊たちに対して、私は今一度、この岩の上に登って大声で呼んでみたい。 君たちはいったい何をしているのか。私が呼んでいるのもわからないのか。私が呼ばわっているのがわからないのか。我が声を忘れたのか。高橋信次があれだけ、生前、声をふりしぼって話してきたことを、君たちは聞いていなかったのか。学んだことはいったい何だったんだ。何を学んだんだ。忘れたか。 あれだけ自分の心をつくるということを、そして霊的世界の意味を、また、魂の重要性を説いてきた私の教えを忘れたか。私がさまざまなかたちで霊示を送っていても、まだ気がつかないのか。君たちは何をしているのだ。この大救世主の降臨に際して、大救世運動が今、起きようとしているその時に。 私がかつて、今から十年以上昔に、「GLA」という団体において説いてきて、人びとを教化した、この何十万人かの人びとを指導したという実績が、全く無駄になってしまうではないか。君たちは何をしているのか。君たちがそういうふうにして私の声に気が付かなければ、高橋信次の生前の四十八年間の意味がなくなってしまいます。それが無駄になってしまいます。 何のために私は四十八年、地上に肉体を持ったのか。そして晩年の七年、八年の間、死力を尽くして伝道したのか。過労で死ぬところまでいったのか。その意味がなくなるではないか。君たちは、私の死を無駄にしたいのか。私の死を無駄にしたくないならば、君たちはもう気付かねばならない。気付いて立ち上がらねばならない。 なぜ力とならんか。なぜ協力しないか。なぜ光の一端として地上に勇気を持って生きていこうとしないか。君たちは一体何をしているんだ。目を覚ませ。早く目を覚まさないでどうするか。 3.救世の原点 私は、今、本当に重要な時期が来たということを、君たちに伝えたいと思う。 もうのんびりしている時ではない。そういう時代認識を持たねばならん。人類に対する危機が迫っている。君たちは本当に、たとえば、高橋信次のこうした霊言・霊示集とか、イエス・キリストの霊示集だとか、モーゼの霊訓集だとか、あるいは仏陀意識の再誕の意識、再説の教え、こうしたものを学んで何とも感じないのか。これが持つ意味がわからないのか。 私は生前、話をしました。人類のなかでは高級霊は数多くいるけれども、釈迦、キリスト、モーゼ、この三人の霊こそ、地球系霊団の最高指導霊たちです。こういうことを教えたはずです。そして、イエス・キリストの過去世の意識、アガシャーという霊の名をとって、この地球霊団がアガシャー系と呼ばれているということを、そうしたことを話したことがあるはずです。そしてそのアガシャー系の霊団は、「愛」というものを旨(むね)として生きているということを、私は語ったことがあります。 今、イエスが「霊示」というかたちで復活をし、モーゼも「霊訓」というかたちで復活をし、また、かつてイエスやモーゼが地上にあった時に、エホバという名で彼らを指導した私が、地上に肉体を持ち、その後地上を去ったあとで、今、こうして霊訓・霊示集を送り続けているということの意味を、君たちは果たしてわかっているか。本当に私がどういう気持でもってやっているか。それがわかっているか。 まだこれだけ本を出してもわからないのか。まだ気付かないのか。本当の意図がわからないのか。私が何を望んでいるのか、何を願っているのか、それが君たちにはわからないのか。 そんないい加減な生き方をして、それでどうするのか。これからもまた今までのように、怠惰(たいだ)な日々を送っていくつもりなのか。天変地異が起きれば、その時はその時でいい、それまで楽しく人生を生きればいいというような、そんな享楽(きょうらく)志向で君たちは生きていくつもりなのか。本当にどうするつもりなのか。それをはっきりしていただきたい。私はそういうふうに思います。 君たちはね、そんな生き方で満足してはいけない。本当の人間の使命に目覚めなさい。何のために地上に出ているかということ、これに目覚めなさい。 君たちが、今、この地上に、この時期に、この日本に出ているという意味は、「救世」のために出ているのだ。救世の運動のために出ているのだ。特に、今の現代の日本に出ている数多くの光の天使たちは、この救世運動に合流しなければ、気が付いてやらねば、今世に出た意味がないということを知らねばならん。 かつて、「GLA」というところで私が指導していた時に、私のもとに光の天使が多数集まって協力をしていた。そうした人たちも、私が地上を去るや羊飼いを失った羊のように、あっちに散らばりこっちに散らばり、エゴの思いでもって利己主義者となって、自分の利益のためだけに生きている。そうした弟子たちに言いたい。 私は、今の君たちの姿を見ていると、本当に情けない。涙が出てくる。何のために出たのか。我が教えを全く学んでいないし、私が復活した時に気が付いて飛んで来ないようでどうするか。そんなことで、何を学んだと言えるのか。 ましてや、我が復活を疑い、それを妨害しようとするような動きに出るような人たち、弟子たち、こうした者は、私ははっきりと破門する。君たちのそうした馬鹿げた行為が、どれだけ君たちの師を悲しませているか。私がどれだけの情熱を持って今、復活しているか。君たちに教えを説かんとしているか。そして君たちに力になってもらいたいと思っているのか。 私が復活をし、霊示を送っているということは、ここを中心として救世運動が起きるということである。そして、かつての我が教えを受けた者たちも、どこかで合流して、力を合わせて、日本の国を変えていくために頑張ってほしいということ。私はそうしたことを祈っているのです。願っているのです。その師の願いが、何故(なにゆえ)に君たちにはまだわからないのか。 私は声を大にして言っておくけれども、救世の原点というのはね、人を救わんとする情熱だよ。人を救おうとする情熱を忘れた時に、人間は存在の意味がなくなるんだ。何のために地上に出たか、それを知れ。それは、今世で楽しい思いをするためだけではないはずだ。そうではなくて、こうした時代に出る時に、君たちが地上に出る前にどれだけ興奮をし、期待をし、喜びに胸をふくらませ、そうしたやる気で出たか。これを知りなさい。 「よーし、今回、地上に出る以上、徹底的に法を説くぞ。法の伝道を手伝うぞ。何とかして地上の人びとを、本当の人間の生き方に目覚めさせ、そしてあの世の世界の存在を教え、真のユートピアの何たるかを教えよう。」そう思って君たちは出て来たんだよ。 それを忘れて、安穏(あんのん)な生活のなかにあぐらをかき、会社の社長だとか、部長だとか、あるいはボーナスだとか、こんなものに目がくらんで、そして本来の使命をなおざりにしている。これで還って来て、実在界に還って来て、私にどう言われるか君たちは知っているのか。そんな生活でもって、君たちの師が「本当によかったね」と言うと思うか。 私もとうとう業(ごう)を煮(に)やしてきたということを、君たちは知りなさい。これが何冊目の書物であるか。私はもう忘れるほど喋ったけれども、まだわからんのなら何度でも言う。 私が、ここで霊言・霊示集を送っているということは、これが救世運動の中核であり、本流(ほんりゅう)であるということだ。この流れに合流せよ。この流れと共に歩け。この光の内を歩め。そうでなければ、本当に今世紀の事業はない。そうでなければ、高橋信次が肉体を持ったという意味はなくなる。 私の死を、あるいは私の生涯を無駄にしないためには、どうか、この私の声を伝えてほしい。高橋信次の霊言が出ているのだから、霊示集が出ているのだから、これを一人でも多くの人に読んでほしい。広げてほしい。それが私の願いです。一冊でも多く、一人でも多くの人に読んでほしい。そして本当のことを悟ってほしい。私の情熱を知ってほしい。 もう一度くり返すけれども、救世の原点は、人びとを救わんとする、幸福にせんとする情熱です。この情熱を失った人間は、私の目の見えるところから去りなさい。この地上から去りなさい。この地球から出ていきなさい。銀河系から出ていきなさい。この大宇宙の外に出なさい。人を幸福にせんとする情熱のない人間は、地上にいなくてよい。この星にいなくてよい。この銀河系にいなくてよい。その外に去りなさい。私はそれだけの決意を持って、今、この霊示集を世に間おうとしているのです。 4.心の偉大性 私が生前、そして今も、みなさん方に一貫して説きたいことは、「心の偉大性」です。人間の心の持つこの偉大性。これを忘れた時に、人間の不幸が始まったのです。人間の転落が始まったのです。それはアダムとイブの時期からではありませんが、この人間の心の持つ神秘性を忘れ、そして心の本質が神そのものであることを忘れた時に、傲慢(ごうまん)となった人間は、堕落への道を歩んでいったのです。 この地上に生まれ落ちて、さまざまな教育、環境、習慣、そうしたものによって、知と意によって人間の心が歪められ、そしてデコボコのある人生を生きてきたのです。そうしたことによって、地獄というところに数多くの人が堕(お)ち、そして現在も苦しんでいる。 また、そうした地獄の存在が地上に悪影響を与え、地上の人びとへの神の光を遮(さえぎ)り、地上の人びとに憑依(ひょうい)をし、あるいはさまざまな惑わしを送って、そして彼らを苦しめている。不幸の拡大再生産をしているという現状。君たちはこういう現状に、まだ、これ以上、満足していられるのか。 自分を知恵ある者、知性が高いと思っている者が、つまらない動物霊やそんなものに唆(そそのか)されて、そして生きているんです。こうした現状に、君たちは本当に満足できるのか。それでよしと本当に思うか。 政治家だとか、官僚だとか、大学の教授だとか、あるいは大会社の社長だとか、そういう肩書をちらつかせながら、その実、蛇の霊や狐の霊、こんな馬鹿なものに憑依されて、惑わされて欲望のままに生きている人間の数多くいることを知るにつけて、私は本当に情けなくなります。 神様は、あなた方一人ひとりを、偉大な存在としてお創リになったのです。あなた方一人ひとりの心のなかに、神とまったく同じものを与えているのです。そうした創造の自由を、創造の偉大性を教えているのです。与えているのです。なのに、なぜそれを忘れたのか。 忘れたことの責任は神にはない。それは人間にある。神の慈悲をいいことに、わがままいっぱいに、自我我欲のままに地上において生きてきた人間。その間違いを刈り取るのはいったい誰だ。それは自分でなくてどうする。誰がそれを刈り取るのか。 大工場が出した排水による汚染、これは神に祈ることによって本当になくなるか。公害は、神に祈ることによってなくなると思いますか。大気の汚染や、川の汚染、こうした汚染の原因は、人間がつくった企業群ではないか。そうした工場ではないか。工場の煤煙や、そうした排水が公害を起こしたのではないか。それは神に祈ることによって、そうした公害がなくなることが果たしてありますか。ありはしない。そうではなくて、それを垂(た)れ流しているのが人間であるならば、人間の行為によってそれを償(つぐな)う以外に手はないではないか。汚水を流さないことです。光化学スモッグを出さないことです。そうすることが、人間の義務ではないか。私はそう思います。 偉大な心を保つということ、これは人間の義務なのです。これを忘れた時に、転落が始まってくるのです。どうか、こうした事実を知ってほしいと思います。 5.釈迦仏教は死なず さて、救世の法、そして心の偉大性の意味、こうしたことを話してまいりましたが、ここで私はもう一度、声を大にしてくり返しておきたいことは、「釈迦仏教は死なず」ということです。 地上に肉体を持ったゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏(しゃかむぬぶつ)という人間は、今から二千五百数十年前に地上を去りました。そしてその教えの概要は、私は生前、『人間・釈迦』という書物を通して語ったことがあります。 けれども、その釈迦仏教がその後中国に輸入され、漢訳をされ、さらにその漢語が日本で読まれるということに至って、全くその本質が見失われることになりました。釈迦は、当時の無学文盲(むがくもんもう)のインドの衆生たちに教えを説いていたにもかかわらず、それをまるで特権階級の教えのようにしてしまったのは誰か。それは後の世に出た僧侶たちではないか。 また、日本の国においても、そうした経典というものは読まれたけれども、漢文が読めなければ救えないような教えが本当の釈迦の本意であったのか。釈迦はそもそも、そうした漢文を書けたか。漢語で喋(しゃべ)れたか。中国語を仏陀が喋れたとみなさんは思いますか。そんなことはないでしょう。なのになぜ、漢字で書いた般若心経、あるいは漢字で書いた法華経、こんなものを筆写したり、こんなものを朗読することによって人間が救われるんですか。 お経の意味は、それは釈迦と弟子たちとの対話扁であったはずです。「如是我聞(にょぜがもん)」といって、弟子たちは仏陀からこのように間いた、私はこのような教えを聞いた、そうした対話篇を再現し、阿難(あなん)を中心とした人たちがそのお経を再現して、そして記憶し、後の世に伝えたのではないですか。そうであるならば、お経というような漢文体に書いてあること、これが釈迦の本意であるはずがありません。それは現代語で、今、私がこのようなかたちで霊示を送っているように、同じく同時代の人たちにわかるような話であったのです。 当時のインドの人びとの知的水準が、現代の日本人より高いはずはないのです。にもかかわらず、その教育水準の高い日本人が、読んでわからないような教えがあるとはどういうことですか。それがなぜ仏教なのですか。 また、釈迦がどうして葬式仏教なんか教えましたか。観光仏教なんか教えましたか。そんなものを教えた覚えはないでしょう。手を合わして拝(おが)めばよいというような、そんな御利益信仰を仏陀は教えていません。 彼自身、一生を通じて説き来たり説き去ったことは、人間の心の偉天性です。自らの心を見つめていくことによって、どれだけ多くの光を発するか。偉大な魂として自らを磨くか。自己をつくるということを徹底的に教えたのが、これが釈迦仏教なのです。その意味においては、原始釈迦仏教、仏陀が教えた仏教は、宗教ではないのです。現代の文部省が認定するような、宗教の範疇(はんちゅう)に入っていないのです。宗教法人法で言う、宗教に入っていないのです。 宗教法人法では、「拝む対象がある」とか、「礼拝の施設がある」だとか、そんな馬鹿なことを一生懸命言っていますが、釈迦はそんなことは一回も言っていないのです。徹底して教えたことは、どうやって心を調律するか、どうやって心を調和させるか。そしてどうやって「悟り」という名の真実の幸福に目覚めるか。生きながらにして世界の秘密を知るか。こうしたことを教えていたのです。それは「哲学」というような言葉で呼ばれるものでもない。総合学です。総合的な人間学です。これを教えていったのです。 それが今は、宗教の世界と学問の世界が分かれて、宗教というのはまことに摩訶(まか)不思議な世界に封じ込められています。しかし、そんなものではないんだ。本当の釈迦仏教というのは、そんなものではなかったということをみなさん知リなさい。一般に定義されているような「宗教法人」ではないということを、「宗教」の概念に当たらないということを知りなさい。 釈迦が何かに対して手を合わせて拝んだということを、みなさんは聞いたことがありますか。そんなことはない。偉大な教師として生きていた。偉大な教師であったのです。大導師であったんです。それが釈迦の本質です。 どうかね、こうした原点を忘れてはいけない。そんなおかしな新興宗教なんか教えたわけではないのです。だからみなさんは、もう一度原点に戻っていただきたい。釈迦仏教の原点、これを忘れないでいただきたいのです。その原点は、現代でもまだ生きているんです。その釈迦の教えの原点は今もなお、生きているのです。それは、どうやって自らの誤りを修正していくか。自らの心の過ちを修正し、そして素晴らしい人間となって生きていくために、どうしなければならないのか。これを説いているんです。 釈迦仏教は死なず。その精神は死なず。これは不変の法です。神理です。神理というものは、時代によって、さまざまな方便によって説かれることはあるけれども、その本当の姿は不変です。何千年前も、何万年前も変わっていないのです。それは神のお心、そのものであるからなのです。 神の心が、神から流れ出して地上に降りたそのお心は、その説き方は変われども、言っていることはいつも一緒です。あのガンガーの流れが、千年前も二千年前も変わらないように、河の水は同じでなくても、ガンガーの流れそのものはいつも悠久(ゆうきゅう)の大河となって流れています。それが神理の流れです。それが神理の大河なのです。それを知らねばならん。 今、多くの仏教者たちは、お坊さんたちは、自分たちがやっている職業というものをもう一回考えねばならん。その意味を考えねばならん。本当に釈迦の原始仏典、ここに書いてある意味、この教えというものをつかみ直して、それをわかりやすく現代語で人びとに説けなければ、君たちはまったくの間違いです。そうした職業に就いていること自体が間違っています。漢文を読み上げることではない。意味のないお経を上げることではない。本当の世界の仕組みを、そして人間の生き方を教えてあげることが、仏教の本質なのです。こうした観点から、もう一度考え直してみていただきたいと思います。 6.永遠の光 「神は光なり」――そういう言葉があります。私は、この「光」という言葉で表しているものの実質、実相、これを一人でも多くの人に味わっていただきたい。こういうふうに思います。 神の永遠の光、これを地上に生きている時に感じとる人と、感じとらない人とでは、全く違った結果が出てきます。永遠の光は、すべての人間の心のなかに射すことはできるけれども、それを実体験として経験したことのある人間は、おそらく一億二千万の人口のある日本のなかで、わすか数百名、そんなものではないでしょうか。人間としてこの地上に生きて、神の心を心として生きているならば、どうか、この永遠の光の実在ということに、みなさんは気付いてほしいと思います。 それは、私がこういうふうに世に問うているような神理の書、こうしたものを読んで、その内容を日々実践している時に、そうした光が心に射してくることがあります。みなさんの心があたたかくなることがあるはずです。あるいは偉大な導師の、大救世主の話を聞いている時に、心のなかにあたたかいものがサーッと射し込んでくるということがあるでしょう。そのあたたかいものこそ、神の光の本質であるのです。 そうした神の光というのが実在界に充満していて、地上の人間に一日も早く導きの光を与えたいと思っているということを、知っていただきたいと思います。 それはごく簡単なことなのです。日々自らの心を正すという、そうした単純な行為がそうした神の光を招き入れることになるのです。そうした、胸があたたかくなる、心があたたかくなるという、そういう実体験を経た人間は、それなりにひとつのこの世的な神秘の体験を積んだと言えましょう。 どうか、心の調和ということの意味を知っていただきたい。そして心を調和したならば、そうした神の光を受けるという体験をしていただきたい。このように私は思います。 この時に大事なのが、「反省」という行為です。間違った思いを出し、間違った行為をしたと思ったら、すぐ反省によってそれを修正していくこと。そして修正したならば、二度と同じような間違いは犯さないということ。そして、新たな気持でもって出発するということ。こうしたことを実践していただきたいと思います。それが、地上に在るあなた方の使命でもあるからです。 「救世」という言葉は大きな言葉であります。そして、これは大乗的な響きを持った言葉でもありましょう。けれどもこの救世は、やはり一人ひとりの心から始まっていくということ。これを私は声を大にして語っておきたいと思います。一人ひとりの心から始まっていくのです。その出発点なくしての救世はない、救世運動はないのです。まず、一人ひとりが自らの心を神の光と調和させること。これから出発していかねばなりません。 どうかそうした観点で、この救世の大予言、この書物、これを読んでいただきたいと、こういうように思います。